今週のみことば


6月6日


「ヨブは主に答えて言った
あなたは全能であり、御旨の成就をさまたげることはできないと悟りました
『これは何者か
知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは』
そのとおりです
わたしは理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました」
(ヨブ記42章1-3節)

ヨブ記については、前回42章に飛びましたが
更にわたしたちの日常に則して
具体的に読み進めていくことにします

まず、改めて1章をふり返ると
ヨブがすべてを「失う」ところから始まっており
人は大切なものを奪われるとどうなっていくのか
章を追うごとに、その心模様の変化が記されていきます

もし何か悪い事をしたのから
奪われても仕方がないことですが
正しく真面目に生きてきてそのような目に会うのは
いくら考えても理由が分かりません

この時には、ヨブにも友人たちにも
「天界の都合」という発想がないため
災いの理由はわからないままです
このように
わたしたちの日常に起こることも
すぐには意味のわからないことがあるかもしれません
そして
ヨブも友人たちもそうであったように
「神」を見ることなしに、そこに起きた災いだけを見れば
そこには『因果応報』という思想が起こってきます

『因果応報』とは
”人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある”
という考え方ですが
これは仏教思想であり、日本には古くからある教えなので
なじみやすい感覚ではないでしょうか
ところが、現実にはこれはすべての事には当てはまらないため
さらには『前世』というものを持ち出し
その人の知らない前世での行いが今に影響していると言って
この思想を補強しています
こうなるともう人間が対処できる問題ではありません

さて、ヨブと友人たちの考え方もこの『因果応報』と同じでしたから
『愛の神』がどのような方であるか、最初はわかりませんでした
そのため彼らは、神の考えとは違う次元の議論を繰り返し
最後に神ご自身が言葉をもって現れることで
ヨブは本当の神の姿を「見た」という実感をもつようになるのですが
そこに至って、更にヨブの友人たちのために祈った時
ヨブの試練は終わります

この時、どうやってヨブの試練が回復したのかと言えば
ヨブが”祈り倒した”わけではなく
神のことが本当にわかり
神がされることを受け入れる信仰をもったからでした

「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います
あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き
主が最後にどのようにしてくださったかを知っています
主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」
(ヤコブの手紙11章11節)


ここに言う「ヨブの忍耐」とは
ただ彼が試練をじっとがまんし続けたということではありません
彼は最終的に、神が「全能の神」であることを悟り
神に自分の人生を託したのです
こうして、すべてを「失う」ことでヨブは神を知り
それによって彼の試練は終わって
ヨブは以前にも増して祝されていくのでした
”主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです”

わたしたちの人生も
ヨブほどではないにしても
忍耐を要することばかり起こるかもしれません
それでも
ヨブの忍耐も神に導かれたものであり
「忍耐力」の元となるのは「信仰心」でした
神と共にある者の忍耐の先には必ず救いがある
そう信じる信仰心がすべての支えとなるのです

”主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方”なのですから
その神の本質を知ることは
神の救いへの希望となり
この希望は、どんなところに置かれても生きる力を生みだします

ヨブ達が惑わされてきた『因果応報』という思想は聖書にはありません
世の中には良い人も悪い人もいて
どちらにも等しく雨は降るように
神はすべての人に、その人にちょうどいいものを与えて下さいますが
それを十分受け止めて、感謝することができるのは
「神を知っている(救われている)人」だけです

しかし現実には
救われているクリスチャンで
教会に熱心に通っている人であっても
神を見ないで人やお金を見ている人もあります
せっかく神の恵みを受け取る(神に会う)チャンスがありながら
自らの考えで恵みを流してしまう人もあるのです

実際、教会へ行こうとする人は
多くの場合、何かを得ようとしているのではないでしょうか
信仰の目的が「得る」ことなら
「失う」ことで不信仰になるのは当然と言えます

神から最も正しい人とされたヨブでさえ
「失う」ことの意味が分からない間は、それを理不尽と思って嘆いています
ヨブは裕福で、神に守られていましたから
その中にある間は安心して生きることができましたが
「失う」ことで一気に心の余裕をなくし
本心があらわになりました

こうして「失う」経験の先に人は何を悟るべきなのでしょうか
それは、すべての事は当たり前ではなく
神の守りのうちに日々過ごしているという現実です
神はあわれみをもってそれぞれの人生を幸いへと導いて下さっていても
平凡な日常に感謝を見出すことは少ないでしょう
残念ながら人間は失わなければそれに気づかないからです

人は皆、自分で生きているようで、神に生かされていることも
花は勝手に咲くのではなく
神がちょうど良い時に咲かせ
それを人が見て心癒されることも
神によってすべてのものがこの世に置かれ
すべては神の導きによって成り立っていることも
神を信頼する心(信仰心)がなければ理解することはできません
ましてや、そこに感謝が生れることもないでしょう

このように
人生は決して人の思い通りになるものではありませんが
すべての道で神を認め、神と共に歩む時
その信仰心は希望を生みだし、前へ進む原動力となります
そこには神の後押しがありますから
必ず道は開かれ、神が生きて働くことが証明されるのです
そのための生き証人として
わたしたちも用いられていくことができますように



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