今週のみことば


6月13日


「ヨブはその後140年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた
ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ」
(ヨブ記42章16-17節)

大変な試練の中から一転
幸いな人生を全うしたヨブの物語はここで終わります
彼は試練の果てに「神がどのような方であるか分かった」時
すべての災いから解放されて、その後はもう何も失うことはありませんでした

試練の中も、”神と共にある”と信じる人は幸いです
その人は色んな困難にもわずらわされず(動揺せず)
自分にできる最善を尽くしつつ
あとの結果は神におまかせしますから
平安が与えられ、なおかつそこには幸いな結果も伴います
それは
神の栄光が明らかになるためであり
神を信じて生きていく人がこの世にあっても天国を体験することを
多くの人に証するためなのです

人生は誰も自分の計画通りにはなりません
ヨブは最初、自分の思い描く理想的な人生を送るために
計画的に捧げものをしたり、律法に厳格に従って生きていました
しかし、そこにあるのはあくまでも「自分の思い」にすぎず
神のご計画が別の所にあるとは考えていなかったのでしょう

わたしたちも信仰者でありながら
いつも自分の理想に惑わされて
華やかなものをつかむことに熱心になり
その願いがかなうために神に祈るようになりがちです
それは
日頃から神の名を口にしながら
その実、神がどのような方であるかが分かっていないからなのです

すべての人の人生は神の手の内にあって
人は皆、好むと好まざるとによらず色んなところへ導かれていきます
ちょうどヨナが
神の言葉にそむいて、ニネベに行かずタルシシ行きの船に乗ったように
不都合なことからは逃げたくもなるでしょう
ところが、神のご計画は逃げてもなお変わることはなく
ヨナの乗った船は嵐に会い、彼は海に投げ出された後に魚に飲まれ
ニネベの海岸に吐き出されるのでした

「実に、信仰は聞くことにより
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」
(ローマ人への手紙10章17節)


イエスの誕生の際
聖霊によって身ごもったと告げられたマリアも
その婚約者であったヨセフも
自分たちにとって実に不都合なことを
それは神からの言葉だからと信じて受け入れました
人間的に考えれば、一体この先どうなってしまうのだろうかと不安に思うことでも
神のご計画には、その先に必ず証が伴います
実際にイエスの生涯を通して
本当にこの方が神であることは多くの人に証されました

わたしたちの前に開かれる道は
自分の思いとは違う不都合なものかもしれません
誰も好きで病気になるわけでもなく、問題を抱えたいわけでもないでしょう
それでも、それらのことは不都合なことであっても、神から出ているなら
そこを受け入れた先にある神の助けに希望を置くのが信仰者です
また、自分の面子に関わるような、引くに引けない場面もあるかもしれませんが
信仰者だからこそ、信仰をもって「引く」という選択をすることも大切ですし
反対に、自分の力を超えた課題を与えられた時には
思い切ってやってみるのも信仰です

神のご計画は何なのか
神の導きはどこにあるのか
それは実際に行動してみなければわかりません
その時、信仰がなければ
どうやって神の言葉に従っていくことができるでしょうか

”神の言葉に従う”とは
自分には不都合でも、開かれた道に歩むことです
その試練に置かれた時、負けてしまう人は
残念ながら神を見ていません
そういう意味で、信仰歴は本物の信仰とは関係ないのです
更に、子どもは親のまねをするので
親が本当の信仰をもっていなければ
律法の形を守る熱心さだけが伝わり
本当の信仰は育ちません
これではいざという時どうやって平安を得ていくのでしょう
わたしは今まで熱心に教会へ行ったのに
不都合な試練に会うのはなぜなのかと
ヨブのように理不尽に思うのではないでしょうか

人はとかく花や実の部分ばかりを見て
根の部分には思いが至らないものです
しかし、この見えない「根」の部分こそが信仰であり
花や実は信仰の結果です
ということは
まず初めに自分の理想とする結果ありきではなく
神のご計画に任せていく「信仰の根」を育てることが最も重要なのです

このように信仰は「キリストの言葉を聞くことによって始まる」のですが
「権威のある人の言葉」が神の言葉のようにひとり歩きすることもあり
「偉い人の諸説」にこだわっていたら
神の言葉も導きもわからなくなってしまいます
これでは幸いな方向へは導かれませんし
神の言葉に従っているつもりで
実は人の言葉にこだわっているだけでは結果が伴わないので
平安を得ることもできないでしょう

神に祝された人とは
どんなところにあっても神と共にあることを信じ
問題に負けないで進むことができる人です
神を信じ、そこに希望を置いているからこそ
その信仰が支えとなって前進することもでき
どんなところにも花が咲く、つまり神の証という結果が伴うのです

ところが
自分という「我」が強いと
自分の理想が第一となり
神に対して聞く耳をもつことができません
人間は誰も完璧ではないのですから
自分の考えがいつも正しいとは思わないことです

自分の考えや理想はあっても
それはさておいて、神の導きに任せることの大切さに気づいたヨブは
その後、大いに祝された生涯を全うしました
わたしたちはここから本当の信仰を教えられ
自分の損得ではなく、神の導きで歩む者として進んでいきましょう



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