今週のみことば


6月20日


「しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ
オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば
あなたはその枝に対して誇ってはならない
たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく
根があなたを支えているのである」
(ローマ人への手紙11章17-18節)

神の選民ではない異邦人であるわたしたちが
イエスの名による救いを受けて神の民となったのは
野生のオリーブの枝が、神の木に接木されたようなものです
そこで、葉が茂り、やがて立派な実が生ったとしても
それは自分の頑張りによる成果ではなく
根からの養分、つまり神の祝福によって支えられていることを忘れてはなりません

ヨブ記の最後42章において、ヨブが神に対して
「わたしはあなたのことを耳で聞いていましたが
今はわたしの目であなたを拝見いたします
それでわたしは自ら恨み、ちり灰の中で悔います」

と語ったのは
自分は今まで神に支えられて生きてきたのだということを
頭ではなく心から理解し
それを知らなかった自分を恥じ
神に対して恨みごとを言った自分を悔いています

ヨブは、真面目に生き、燔祭をささげるといった律法の行いに熱心な人でしたから
その姿は立派な信仰者のように見えますが
その実、神がどのような方であるかわかっていないので
本当の意味での「信仰」もわかっていませんでした

律法の行いに熱心な信仰者は
いつしか自分の頑張りが自分の人生を支えているように思いがちです
しかし
人の知らないところで神がどんな事をしておられるのか
人がどうがんばっても髪の毛一本でさえ自由にならないというのに
世界のすべてを神が造り
身体の細部に至るまで神が支配しているということも意識しないままだとすれば
それは神を見ている本当の信仰ではありません

ヨブは自分に起こった災難が何も回復されていない時にこれを悟り
あとはただ神の命令に従って3人の友人のために祈ることで
すべての災いから解放され、その後は大いに祝されていきます

わたしの人生はこういう予定ではなかった、、、と
人間的な考えで人は色々思います
それでも、その人の人生も寿命もすべては神のもの
人は寿命が短ければさぞかし無念であったろうと思い
長ければ幸せであったろうと思いますが
それはみな人が勝手に思っていることにすぎません

世の中にある「勝ち負け」も
勝った人が幸せだとは限らず
勝ったがためにかえって傲慢になってしまうこともあるでしょう
あるいは判定ミスで負けてしまった場合
それはもうくつがえることはなくても
それを潔く受け入れることができる人は幸いです
もしあの時の結果が反対だったら?!と思うこともあるでしょうが
それもまた人が勝手に思っているにすぎません

自分で計画したように人生が進むために信仰するのは
神を見ている信仰ではないと
ヨブはそれを最後に悟りました
だから後はもう自分の人生のすべてを神に任せていく

「信仰に立つ」とは
神のなされることを受け入れて、感謝して生きていくこと
神のその大きさを知ったなら
もはや神から離れる等ありえないとの思いで
その開かれた道にただただ従っていくのみなのです

神が与えると約束したカナンの地に入るにあたり
ヨシュアは神から言われました
「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう
わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる
あなたを見放すことも、見捨てることもない
強く、雄々しくあれ
あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を
この民に継がせる者である」
(ヨシュア記1章5-6節)


わたしたちが今置かれているところは
神と共にあれば、その地で必ず祝福を受けるという
それぞれに神が与えた約束の地です
誰が神に従わなくても
自分と自分の家族は神に従うとヨシュアが宣言したように
わたしたちも神の言葉を受け入れて
神から祝福を受けるとはどういうことなのかを体験して行きましょう



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