今週のみことば
6月27日
「主のしもべモーセが死んだ後、主はモーセの従者ヌンの子ヨシュアに言われた
『わたしのしもべモーセは死んだ
それゆえ、今あなたと、このすべての民とは
共に立って、このヨルダンを渡り
わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい
あなたがたが足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように
あなたがたに与えるであろう
あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び
また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう』」
(ヨシュア記1章1-5節))
神が与えると約束したカナンの地を目の前にして
モーセは死に、指導者の役目ははヨシュアに引き継がれました
モーセは偉大な指導者でありましたが
すべての働きは神の導きによるものでしたから
その役割がヨシュアに代わろうとも
その約束も恵みも変わることはありません
このように神の言葉はどんな時にも「絶対」であり
それを信じていくのが「信仰」です
これからヨシュアに率いられてイスラエルの民が入って行くカナンの地には
戦わなければならない敵がいます
そして、実際に強大な敵を前に彼らは恐れていくのですが
それでも神が『あなたがたに与える』と約束されたことを信じて
ヨシュアたちはどんどん進んでいくのでした
「わたしはあなたに命じたではないか
強く、また雄々しくあれ
あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ
恐れてはならない、おののいてはならない」
(ヨシュア記1章9節)
この当時、神が直接語られた言葉も
今わたしたちが読む聖書の言葉も
同じ神の言葉です
そこには「言葉」として「祝福」が示されますが
この先の人生が具体的にどうなっていくとの話はなく
これから起こる問題を前もって教えられることもなく
それゆえ早めに対処することもできない中で
それでもどんな時にも神の救いがあると信じていくことが
わたしたちには常に求められているのです
人間は神に似せて造られたものですから
神を信頼し、神と共に生きていくことが本来の生き方であり
罪ある人間であっても
救いを受け、信仰をもっていくなら
そこには必ず神が与える恵み(助け)があります
聖書には
この世には良い麦も毒麦も一緒にまかれ、共に生長するとありますから
人生に問題が起こるのは当然と言えるでしょう
実際に、問題を起こす人々や理不尽な出来事はたくさんあり
なぜそのようなところに自分もまきこまれていくのかと
嘆かわしく思うことも多々あるものです
しかし
そこにどんな問題があろうとも、どんな嫌な人が登場しようとも
そこは神が備えた新しい地ですから
必ず助けがあると信じて踏み出す事が出来る人は幸いです
人生に諸問題があるからと言って
いつまでもそこにとどまっていれば、問題の中にいつまでもいることになり
そこを神と共に踏み出す人は問題から離れることができます
過去に捕らわれて嘆いたり恨んだりしても事態は変わらず
神に希望を置いて前を向いて歩み始めれば
そこに神の救いを見ることができるでしょう
人間は神ではありませんから
人生の予定など立てれるものではなく
仮に立てても、その通りになることはまずありません
それを知っている人は、神を知っている人です
試練に会う時こそ神を知るチャンス
ヨブは大変な試練の中で自分を知り、神を知りました
それは形としての信仰ではなく
今まで自分は神を知らなかったのだと、心からの悔い改めとなり
それを神は喜ばれたのです
世の中には
捧げものをしておけば願いがかなうという宗教はたくさんありますが
聖書においてはそれは信仰とは呼びません
これから先がどうなるかわからないけれど
それでもこの神に従っていくのだと
神の救いに希望を置いている人は幸いです
この世には死より恐るべきものがあり
それは希望を失うことだからです
神に対する希望は決して失望に終わることはありませんから
わたしたちは必ず生きていけるばかりか
そこに神の力を見るチャンスを与えられるのです
試練の中にあって
ヨブは最後に神を知り
その測り知れない偉大な力に希望を託しました
わたしたちも日々さまざまな問題に直面しつつも
どうぞ神の救いを信じて
希望をもって
まだ知らない新しい地へと踏み出していくことができますように
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