今週のみことば


8月29日


「主はヨシュアに言われた
『立ちなさい。あなたはどうして、そのようにひれ伏しているのか
イスラエルは罪を犯し、わたしが彼らに命じておいた契約を破った
彼らは奉納物を取り、盗み、かつ偽って、それを自分の所有物のうちに入れた
それでイスラエルの人々は敵に当たることができず、敵に背を向けた
彼らも滅ぼされるべきものとなったからである
あなたがたが、その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ
わたしはもはやあなたがたとは共にいないであろう
立って民を清めて言いなさい
”あなたがたは身を清めて、あすのために備えなさい
イスラエルの神、主はこう仰せられる
イスラエルよ、あなたがたのうち、滅ぼされるべきものがある
その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから除き去るまでは
敵に当たることはできないであろう”』」
(ヨシュア記7章10-13節)

エリコを攻め落としたイスラエルの民は
続いてアイの町をさぐり、攻めていきました
そこは小さな町でしたから、兵力が3千人もいれば大丈夫だろうと思われましたが
実際には戦いに敗れて、逃げ去る事となってしまいます

これを見たヨシュアは神の前に衣服を裂いてひれ伏し
なぜこのような結果になったのかを問いかけました
ここまで神をひたすら信頼してきたヨシュアでさえ、この時には心が弱り
自分たちはヨルダン川を渡らなければ良かったのではないかと
弱音を吐いています
神から指導者として立てられてはいても
ここでヨシュアもまた一人の人間であることが分かります

すると神は、イスラエルの民が犯した罪について言及しました
エリコの戦いにおいて
そこにあるものはすべて神への奉納物として扱わなくてはならないと命じられたにもかかわらず
それらを見て欲しくなったアカンが
金銀や織物を盗み、自分の天幕に隠していたのです
こうして、神への奉納物を盗んで自分のものにした者がいたことで
イスラエルの民は自分たち自身が「滅ぼされるべきもの」となり
戦いに敗れてしまったのでした

そのため彼らは
「滅ぼされるべきもの」を自分たちの中から滅ぼし去るのでなければ
神は今後イスラエルの民と共にいない事を宣告され
神が共にいないということは、敵に勝つことはできないと告げられたのでした

その後、罪を犯したアカンは「滅ぼされるべきもの」として
家族と共に石打ちの刑に処せられていきます
非常に厳しいことではありますが
アカンがしたことがどういうことなのか
それはわたしたちに何を教えているのかを
ここではよく考える必要があります

アカンは単純に自分の欲で奉納物を盗みましたが
神への奉納物とは、本来神のもの
つまり、神が戦いに勝利させて下さったことの証、栄光なのです
その神の栄光を自分のものにした
この罪は許されるものではありません

金銀に目が奪われてしまうのは、人間にはありがちなことですが
神への信頼よりも金銀に対する執着心が勝るのであれば
その心を取り除かない限り、神はその人と共にいないということになります
神が共にいなくては、知恵も力もなく
わたしたちは人生の難局を乗り切っていくことはできないのです

信仰は損得勘定ではなく
「神が見ている」という意識が、その人の行いに出てきます
口先の熱心よりも
「神の側に立つ」とはどういうことなのか
わたしたちは常にその意識を問われているということなのです

神の知恵が与えられることがどれほど幸いであるのか
そして実際に今までどのように助けられてきたのか
「神の側に立つ」という意識のない人にはここがわかりません
つまり
物事が上手く行かないときは神に文句を言い
上手く行けば神に感謝するよりも栄光を自分のものにする
その感覚こそが「滅ぼされるべきもの」であり
それを持ち続けたままでは、敵に当たることはできません

「ヨシュアはまた民に言った
『あなたがたは身を清めなさい
あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである』」
(ヨシュア記3章5節)


ここでいう「身を清める」とは
自分が神の側に立てない思いを一掃するということです
アカンの欲は物で表されていますが
わたしたちにもそれぞれ心の中に一掃すべき「思い」があるかもしれません
実際に
初めのうちは神に栄光を帰していても
いつの間にかそれを自分のものにしてしまう人は多いからです
神のものは神のもの
その心をいつまでも変わらずもち続けていけるでしょうか?

持ちものが増えても、金銭的に豊かになっても
感謝も喜びもないとすれば
人間が生きていく上で大切な「内側を満たすもの」がない
つまり、これが「神が共にいない」という状態です

では、どうすればこのような間違いに陥らずに済むのでしょうか
それは、まず自分という人間を「愚かな者」として受け入れることです
信仰者の中には
神の名のもとに、何か自分がすごい者になったように錯覚し
強がったり、自分を大きく見せようとする人が出てくることもありますが
これでは何があっても神の栄光には結びつかないのだということを
わたしたちはよくよく知っていかなくてはなりません

例えば病気になった時には
病気であることを受け入れて
強がりを言う必要もなく、神の前に正直になり
時には弱音を吐くなどの弱さを表しつつも
それでも神の救いに希望をおくことも忘れない
ただそれだけのことでも
前向きに生きている姿は神の栄光を表し
また自分が辛い思いをすることで他の病める人への思いやりの心も育っていくなら
いよいよ神の栄光につながっていくのではないでしょうか
わたしたちは自分が立派に見えるためではなく
神の栄光のために生かされていることがわかれば
そこから本当の平安も与えられるでしょう

「あなたがたは身を清めて、あすのために備えなさい」
明日からはじまる新しい週に向けて
まずは自分の信仰を省みて
心新たに歩み出すことができますように



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