今週のみことば


9月12日


「そこでイスラエルの人々は彼らの食料品を共に食べ
主のさしずを求めようとはしなかった
そしてヨシュアは彼らを和を講じ、契約を結んで、彼らを生かしておいた
会衆の長老たちは彼らに誓いを立てた」
(ヨシュア記9章14-15節)

カナンの地にある町が、エリコ、アイと、滅ぼされたことを聞き
近くの町ギベオンの住人達は
わざと遠くから旅をしてきたような格好をして哀れを装い
ヨシュアたちをあざむきました

ヨシュアは彼らの言葉を信じ、神に問うことをせず
彼らを生かしておくように契約を結びますが
実は彼らが近くに住む民であることが発覚し
イスラエルの民は長老たちに向かって怒りを発します
しかし、時すでに遅く
彼らを生かしておくことを誓ってしまった後なので
そのまま奴隷として置くことになりました

このことが元になり
長い歴史の間にはイスラエルの民はカナンの地の人々と交わり
やがて彼らの偶像を取り入れて
滅びを招いていくのです
実際に、ソロモン王が愛した女性たちの神々を拝したことから
イスラエルの国は分裂し、バビロンによって滅ぼされていくのでした

モーセがずっとそうしてきたように
ヨシュアも大切なことは「神に問う」べきでしたが
彼は情に負けてだまされてしまいました
大切な第一歩を間違ってしまったヨシュアは
その後、どうすればいいのか
改めて神の指示を仰げばよかったのかもしれません
しかし、情に負けた後のフォローもしませんでした

情というのは厄介なもので
子どもの教育でも情で動くと失敗します
情に流されず「ダメなものはダメ」との教えを守ることは
非常に大切であるにもかかわらず
ヨシュアは最も重要な神の命令にそむいてしまったのです

その結果どうなるかについては
すでに以下のように語られていました

「イスラエルの人々に言いなさい
あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときは
その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い
すべての石像をこぼち、すべての鋳像をこぼち
すべての高き所を破壊しなければならない」
「しかし、その地の住民をあなたがたの前から追い払わないならば
その残しておいた者はあなたがたの目にとげとなり
あなたがたの脇にいばらとなり
あなたがたの住む国において、あなたがたを悩ますであろう」
(民数記33章51-52、55節)


「あなたは彼ら、および彼らの神々と契約を結んではならない
彼らはあなたの国に住んではならない
彼らがあなたをいざなって、わたしに対して罪を犯させることのないためである
もし、あなたが彼らの神に仕えるならば
それは必ずあなたのわなとなるであろう」
(出エジプト記23章32-33節)


自分の判断ミスが
やがて自分を悩ます問題を招いてしまう
人間が良かれと思ってすることがすべて正しいわけではなく
自分を義とすることでどのような間違いが生じるのか
わたしたちはここを謙虚に受け止めていかなくてはなりません

遠い昔、アブラハムが甥のロトと別れた際
神が与えると約束されたカナンの地
その約束はずっと変わらず
一度はここから出て行ったイスラエルの民は
長い年月を経て再びここに戻ってきました

そこまでずっと神に導かれてきながらも
カナンの地に入って、先住民との戦いが始まると
金銀に目がくらむ者も出てきました
そして、指導者ヨシュアまでが情に負け
自分の判断を過信し、神に問うことをしませんでした

こうして人は
神を知りつつも、情と欲に負け
神以外のものに頼るようになっていきがちです
それは現在のわたしたちにも共通しており
その思いを心の中から滅ぼしつくさなければ
わたしたちも同じ過ちを犯すことになるでしょう

モーセの行動をずっと見てきたヨシュアでも
心にすきがあれば、真実を見抜くこともできなかったように
わたしたちも自分の思いや考えはあるにしても
それを絶対通そうとすると
将来に関わる程の大きな問題になるかもしれません

カナンの地に住む人々は、天地創造の唯一の神に従わない民です
だからこそ滅ぼしつくさなくてはならない
一方で、イスラエルの神を信じたラハブと親族は
滅ぼされる運命から一転、救い出されました
同じカナンの地の民でも、この違いは「信仰」にあります
そして
わたしたちに求められているのも
心から神を信頼し従おうとする信仰なのでした

ギベオンの人々にだまされたと知ったイスラエル人たちは
長老たちに向かってつぶやきました
しかし、その時の長老たちは、神の戒めを破ったことへの悔い改めはなく
すでに誓ってしまったのだから神もゆるしてくれるだろうと
勝手なことを言っています
彼らには「何が罪なのか」という意識が薄かったのでしょう

神が直接人に答えられるわけではない現在、「神に問う」とは
聖書のみことばに立った感覚で判断するということになります
教会へ相談に来る人の中には
自分の思い通りの答えが出るように話をもってきて
そうでなければ納得しない人がありますが
それは「神に問う」のではなく
自分が正しいと認めさせようとしているにすぎません

人には多くの考えがあっても
すべては神のご計画どおり進んでいきます
その道をわたしたちも喜んで従っていけるように
頭と心を柔らかくして
自分がどうするべきかを
みことばから学んでいきましょう



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