今週のみことば


10月22日


「ダビデはアビシャイに言った
『殺してはならない。主が油を注がれた方に手をかければ
罰を受けずには済まない』
更に言った
『主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう
時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ
主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを
主は決してお許しにならない
今は、枕元の槍と水差しを取って立ち去ろう』」
(サムエル記上26章9-11節)

ダビデが隠れている場所を知ったサウルは
3千人の兵を率いて探しに行きました
一方ダビデは、サウルが追ってきたことを知ったので
サウルが陣を敷いているところに近づいて
サウル軍の司令官アブネルが寝ている場所を見つけます
その陣営の中でサウルは寝ており
兵士がその周りに宿営していました

ダビデはサウルの陣営の中に
アビシャイと一緒に忍び込みます
サウルは眠り込んでおり
彼の槍はその枕元の地面に突き刺してあったので
アビシャイは自分に槍でサウルを殺させてほしいと願い出ました
しかしダビデは反対します
彼の主張はいつも同じで
「主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを
主は決してお許しにならない」

との思いは、この時も揺らぎませんでした

神は生きておられる方で
いつか必ずサウルは神によって打たれるとダビデは知っていましたから
サウルがいつどういう死に方をするのかは神にゆだねて
ダビデ自身はサウルの槍と水差しだけを取って立ち去るのです

ダビデとアビシャイがサウルの陣営に潜入する時も
また出ていく時も
「主から送られた深い眠りが彼らを襲い、全員眠り込んでいた」(12節)
とあるように
神は常にダビデに味方をし
ダビデは決して神を裏切る行為をしませんでした

ダビデも人間ですから
何度もしつこくサウルから命をねらわれていると
殺してしまいたいとの誘惑にかられることもあったでしょう
その思いを彼は自分の信仰によっておさえていたのです

サウルの陣営から抜け出した後
ダビデはサウル軍の司令官アブネルに呼びかけました
敵兵がサウルのもとに忍び込んだというのにアブネルは気づかず
主人である王を守れなかった
その証拠に王の槍と水差しがなくなっているだろう・・・と

「サウルは言った
『わたしが誤っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい
この日わたしの命を尊んでくれたお前に
わたしは2度と危害を加えようとはしない
わたしは愚かであった
大きな過ちを犯した」(21節)


このサウルの言葉通り
彼はもうダビデを追わなくなったと、27章4節には記されています
そして
彼が戦で死ぬ時が近づいていました
「時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ」
ダビデが神にゆだねた「その時」は
こうして確実にやってくるのです

23章において
ケイラの町をペリシテから救うようにと
神によって命じられたダビデは
助けたケイラの人々から後に裏切られることも
神に聞いて知らされました

このように
「神に聞く」ことの先にあるのは
自分にとって益と思える嬉しい答えばかりではありません
それでも神に聞く時には、知恵が与えられ
今後どうしていくべきかを教えられるので
結果的には幸いになります
しかし
自分にとって得をすると思われる欲の道を求めるなら
神の知恵も役に立たないでしょう

神は生きておられます
神のご計画は必ず成り
そのためには
「主から送られた深い眠りが彼らを襲い、全員眠り込んでいた」
ということまでも起こるのです

活殺自在の神は、眠りさえも自在に与えるので
わたしたちも”信仰が眠った状態”にされるかもしれません
神の言葉が自分に合わないと感じると人は耳を閉ざします
こうなると短気を起こして「自分でやってやる」と息巻き
「判断は神にゆだねる」という大切なことも忘れてしまうでしょう

人間的に考えればもうどうしようもない状況にあっても
ダビデは全能の神に希望をおいて
最後までサウルを殺そうとはしませんでした
信仰とは
自分本位ではなく神を第一とすることですから
このダビデの姿勢こそが信仰者の見本なわけです

だからこそ、わたしたちは
神は生きておられる方であることを心に留めて
神の前には、得か損かで判断せず
辛い中にあっても神の助けを信じて進んでいかなくてはなりません

世の中に生きていく時には
助けた人から裏切られるようなことがあっても
それでもわたしたちはなお生きていかなくてはならないわけです
人生はどこまでも厳しいと感じることもありますが
神は全てのことを見ておられる方ですから
許せないと思うような立場に置かれても
ダビデの忍耐を思い出して
神に喜ばれる正しい道を進んでいきましょう



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