今週のみことば


11月26日


「ペリシテ軍はイスラエルと戦い
イスラエル兵はペリシテ軍の前から逃げ去り
傷ついた兵士たちがギルボア山上で倒れた
ペリシテ軍はサウルとその息子たちに迫り
サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを討った
サウルに対する攻撃も激しくなり、射手たちがサウルを見つけ
サウルは彼らによって深手を負った
サウルは彼の武器を持つ従卒に命じた
『お前の剣を抜き、わたしを刺し殺してくれ
あの無割礼の者どもに襲われて刺し殺され、なぶりものにされたくない』
だが、従卒は非常に恐れ、そうすることができなかったので
サウルは剣を取り、その上に倒れ伏した
従卒はサウルが死んだのを見ると
自分も剣の上に倒れ伏してサウルと共に死んだ
この同じ日に、サウルとその三人の息子、従卒、更に彼の兵は皆死んだ」
(サムエル記上31章1-6節)


ダビデとその兵がペリシテ軍から離れた後
ペリシテとイスラエルの戦いが始まりますが
イスラエルは劣勢で、サウル王の3人の息子たちは死に
サウル自身もまた最後は自分で剣の上に伏して死んでしまいました
その遺体はペリシテ軍によって持ち去られ
首を切り、遺体はベト・シャンの城壁にさらされました
そのひどい仕打ちを聞いたギレアドのヤベシュの住民は
サウルとその息子たちの遺体を取りに行ってヤベシュに持ち帰り
火葬に付して柳の下に丁重に葬ったのです

ギレアドのヤベシュの住民とは
まだサウルが王になったばかりの時に
アンモン人のナハシュに攻め込まれた人々でした(11章)
この時ヤベシュの人々の嘆きを聞いたサウルに
初めて神の霊が激しく降り
サウルはイスラエル全土から兵を集め指揮して勝利を得ます
この勝利によってサウルは王として名実ともに認められ
ここにイスラエル王国が建てられて行ったのです

この王としての輝かしい一歩が記されることになった
きっかけの地であるギレアドのヤベシュの人々によって
サウルは最後に葬られていくわけですが
彼の生涯は人間的に考えれば気の毒なものでした

そもそもサウルは自らが王として立候補したわけでもなく
父親から命じられてロバを探しに行った先でサムエルに出会い
神の命令によって一方的に王としての油を注がれた人です
そういう意味では
王として選ばれたことについてサウルには責任はありません
しかし
その後の王としての歩みについては
サウルは神を味方にしようとしなかったという責任があります
そのため彼は
神の代理者としての使命を果たすべく王としての成長がありませんでした

これまで何度も語ってきたように
サウルは偶像こそ拝みませんが
神に聞くわけでもなく
自分の力を誇りとし、自分の力で進んでいきました
どうしても神を第一とすることができない彼を神は捨てて
ダビデが王としての油を注がれてからは
サウルはダビデに嫉妬して命をねらい続けます
王としての自分の誇りに固執する彼は
最後まで神に聞くことをしない人でした

一方ダビデは、すべてのことを神に聞き
神を第一として歩んでいきましたから
いつも危ないところから助けられてきました
サウルにしてもダビデにしても
自分の置かれる立場を選ぶことはできなくても
神に心を向けることは自分で選ぶことができます
そうする人としない人の差がどうであったかを
サウルの生涯を見る時によくわかるのではないでしょうか

そんなサウルも神のご計画のうちに歩んだ人です
その悲惨な最期を考えると
凡人として生きた方が幸せだったとも思えますが
置かれたところでどのように自分の使命を果たしていくべきか
その心をどこに向けていくべきかは
(どういう心がけで歩むべきかは)
わたしたちも自分のこととして考えていかなくてはなりません

洗礼と聖霊による救いを受けることは大切ですが
神にある者としての歩みについては
自ら正しい道を選ぶ努力も必要です
というのも、人間には欲があるので
せっかく救いを受けながら
欲に負けていくことも多いからです

「もし神がわたしたちの味方であるならば
だれがわたしたちに敵対できますか」
(ローマ人への手紙8章31節)


いざという時にクリスチャンなら神に希望を置くのが当然ですが
現実にはお金や人を頼りにしようとするかもしれません
サウルもそこに負けた人です

多くのうわさが飛び交い、惑わしの多い世の中にあって
わたしたちは「神に聞く者」として
神を信じ、頼みとし
どんな時にも神に心を向けて行くよう
成長していきましょう



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