今週のみことば
12月3日
「ああ、勇士らは倒れた
戦いの器は失われた」
(サムエル記下1章27節)
サウル王とヨナタンの死がダビデに知らされたのは
ダビデがアマレク人を討ってツィクラグに帰った3日目のことでした
サウルの陣営から逃げてきたという男はアマレク人で
戦場で瀕死のサウルにとどめを刺してくれと頼まれ
それを実行したというのです
そして死んだサウルから王冠とと腕輪をとって
ダビデに持ってきていました
それを聞いたダビデは自分の衣を引き裂き
サウルとヨナタン、そして主の民とイスラエルの家を悼んで泣き
夕暮れまで断食したと記されています
自分の命をねらったサウルが死んだのですから
本来ならば安心するのではないかと思いますが
ダビデは常にサウルを「主が油を注がれた方」として
最後まで尊重し、礼を尽くしたのでした
そんなダビデの心を知らないアマレクの男は
ダビデの命をねらい続けたサウルを殺したと言ったら
きっとほうびがもらえるとでも思ったのでしょう
ウソの証言をした結果
「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か」
と、ダビデの怒りを買い、殺されてしまいます
サムエル記上24章において
サウルを殺すチャンスがありながら衣のすそだけ切り取ったダビデは
サウルに対して自分は決して主が油を注がれた方を殺さない事と
その裁きは神にゆだねていることとを語っています
「主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き
わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように」(16節)
こうしてダビデは終始
サウルの命も自分の命も神にゆだねていました
一方、サウルは
戦場で深手を負うと、もうダメだと思い部下に殺してくれと頼みますが
部下に拒否されると、自ら剣の上に倒れて死にました
いつも神に聞くことをしなかったサウルは
最後まで自分で結論を出し、自殺したわけです
聖書に出てくる人で自殺したのは
あと思い浮かぶのはイスカリオテのユダくらいでしょうか
イエスを銀貨30枚で売った後
彼は激しく後悔しましたが、神に許しを乞うこともなく
死ぬしかないと自分で結論を出したのでした
神にある者は、自殺をしてはいけません
例え取り返しのつかない失敗をしたとしても
神の前に悔い改めて救いを求めるところに
神の恵みがあるからです
「神の御心にかなった悲しみは
取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ
世の悲しみは死をもたらします」
(コリント人への第二の手紙7章10節)
この”取り消されることのない救い”は
洗礼と聖霊による救いです
人間は弱く
誰でも失敗し罪を犯すことがありますが
自分の間違いを認めて神に祈る時には
そこに新たな道が開かれるでしょう
神はその人が正しく生きていく命の道に導いて下さいます
しかし
そこに望みを置かない人は死の方へと導かれてしまうのです
教会における導きは
いつも命の道へ向かうものであっても
導かれる人がみんなそれを受け入れるわけではありません
そもそも自分が失敗した時に
それを素直に認めることも難しく
特に年配の人ほど謝る事が出来ない人が多いように思います
そういう己の誇りを捨てることも含めて
神の前に悔い改めていかなくては
自ら死の道を選んでいるようなものでしょう
さて、ダビデがサウルとヨナタンの死を悼んで詠んだ歌『弓』の中には
最後にダビデのヨナタンヘの深い思いが記されています
「ああ、勇士らは戦いのさなかに倒れた
ヨナタンはイスラエルの高い丘で刺し殺された
あなたを思ってわたしは悲しむ
兄弟ヨナタンよ、まことの喜び
女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を」
(サムエル記下1章25-26節)
日本語では単純に「ああ」と訳されていますが
この言葉には「どうしてこんなことになってしまったのか!」との
深い嘆きの意味があります
サウルの息子でありながらダビデの味方をして
自分の命の危険も顧みず、ダビデを愛し続けたヨナタンを失った悲しみが
率直にここに表されているのでした
最後に自殺したサウルと違って
ヨナタンは戦いの中で敵に殺され
神のご計画のうちにその使命を全うします
悲劇的な最期であっても
ヨナタンは神を信じ、愛を持って正しい道を歩んだ人として名を残しました
聖書の中には様々な人物が登場し
神の前に正しく歩んだ人とそうでない人の対比があります
わたしたちも例え間違いや失敗があったとしても
悔い改めて神の前に正しく成長するように
潔い生き方を選んで行きたいものです
<目次