今週のみことば
12月10日
「ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった
七年六か月の間ヘブロンでユダを
三十三年の間エルサレムでイスラエルとユダの全土を統治した」
(サムエル記下5章4節)
サウル王が死に、次はダビデがすぐにイスラエル全土の王位に着くと思いきや
実際に彼がそうなるまでには更に7年半を要しました
子どもの時に次期王として油を注がれて以来
ずっとサウル王に命をねらわれる日々を送ってきたダビデは
こうして長い年月をかけて
王として成長するための教育をされていったのです
そして
やっとイスラエル全土の王として認められた後も
ダビデにはペリシテ人との戦いが待っていました
「ペリシテ人は再び攻め上り、レファイムの谷に陣を広げた
ダビデが主に託宣を求めると、次のように答えられた
『攻め上らず、背後にまわれ
バルサムの茂みの反対側から敵に向かえ
茂み越しに行軍の音を聞いたら、攻めかかれ
主がペリシテの陣営を討つために、お前に先んじて出陣されるのだ』
ダビデは主の命じられたとおりに行動し
ゲバからゲゼルに至るまで、ペリシテ人を討ち滅ぼした」(22-25節)
どんな戦いにおいても
ダビデの行動はいつも同じく、「神に聞く」ことから始まります
神はその都度ダビデに戦い方を教えますが
”主がペリシテの陣営を討つために、お前に先んじて出陣されるのだ”
ここでも戦いの主役は神ご自身であることが教えられています
その後、6章に入り
ダビデは「神の箱」をエルサレムに運ぶために持ちだします
その「神の箱」を運ぶために新しい牛車が用意され
箱はその上に置かれて運ばれていきました
ところが
途中で牛がよろめいたので箱が落ちそうになったことから
そばにいたウザが箱を押さえると
「ウザに対して神は怒りを発し
この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた
ウザは神の箱のかたわらで死んだ」(6章6-7節)
神の箱が作られた当時の神の命令によれば
箱はレビ人が手で担がなくてはなりませんでしたが
長い間には神の戒めに従うこともだんだんいい加減になって
その結果がこの過失に結びついたわけです
ところが
ウザが死んだのを見てダビデは反省するよりも怒り
こんな怖いものを自分の町に置くわけにはいかないと
ガト人オベデ・エドムの家に押しつけます
すると
神はオベデ・エドムの家を大変祝されたので
それを知ったダビデは
すぐに神の箱を取りに行き、自分の町へ運んだのです
この時
「主の御前でダビデは力の限り踊った」(14節)
と記されているように
ダビデは神の箱を迎え入れることを大変喜びました
しかし
ダビデが踊るのを見ていたサウルの娘ミカルは
ダビデをさげすんで言いました
「今日のイスラエルの王はご立派でした
家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから
空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように」(20節)
そんなミカルにダビデは反論します
「そうだ、お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで
主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で
その主の御前でわたしは踊ったのだ
わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう
しかしお前の言うはしためたちからは、敬われるだろう」(21-22節)
ダビデはこの時
神の前には自分の面子などどうでもよいことだと思っていました
彼にとって重要なのは神が崇められることでしたから
「神の箱」の重要性を自分の目を持って実感させられたからには
神の前に自分を低くするのは当然のことだったのです
そんなダビデでも
神の箱を運ぶ際には間違いを犯しています
更には
その間違いによってウザが打たれた時には「怒った」とあります
神の箱の扱いについては
長い年月の間にいい加減なものになっていたので
ダビデですらその重要性がよくわかっていなかったのでした
ところが神はすぐに神の箱の重要性について教えます
ダビデの怒りによって神の箱を押しつけられたオベデ・エドムは
あのゴリアテを輩出したガト人でしたが
イスラエルの民でもないこの家を神は大いに祝されるのです
それを知ったダビデはすぐに心を入れ替えて
神の箱を自分の町に運び入れました
この「神の箱の扱い」には
「神とのつきあいかた」の基本があります
つまりイスラエルの民は
長い年月の間に神の戒めを忘れ
神とどのようにつきあっていくべきなのかがわからなくなっていました
それは神との間に信頼関係がなくなっていることの現れです
そして
ダビデはその間違いに気づき
神の箱を改めて丁重に扱う事で
自分たちが信頼すべき神がどのような方であるかを示したのです
この「ウザ打ち」のみことばには
わたしたちクリスチャンにとって一番重要な
神を信頼すべきことと
神こそが祝福の基であることを思い出すようにとの教えがあります
人間は過去の出来事(感謝)を忘れ
同時に神の定めも忘れてしまうため
神の箱を牛車に乗せるという失敗も起こりました
わたしたちの信仰生活も
慣れてくると大切なことを忘れがちです
その時もし聖書に関心を持っていなければ
自分が間違ったことをしていても気が付きません
こうして人はついうっかり失敗するので
それを防ぐためには神の知恵が必要です
それは
正しいものを持たないで正しいことはわからないからです
聖書を頭だけで理解すると自分が知っているような気になりますが
実際に聖書を理解するためには
救いを受け、神を信じていかなくてはなりません
親子関係が、ただ子どもを生んだだけでは成り立たないように
救われた後に、神を愛さない人には
そこに信頼関係が育たないので
信仰の成長がないのです
そのような状態では、神の知恵がわからず
何が正しいのかを知る事も出来ません
神の知恵を持っている人とそうでない人の違いは
心に高ぶりがあるかどうかにあらわれてきます
つまり
神中心の人は傲慢になることがないのです
現在、「神の箱」がどこにあるのかは誰にもわかりませんが
箱の中におさめられている3つの物は
クリスチャンが常に心に留めておかなくてはならないものでもあります
その3つの物とは
「十戒の石板」「芽吹いたアロンの杖」「マナ」ですが
それらは言いかえれば
「神の戒め」「神の選び」「神の奇跡」ですから
どれも忘れてはならないものばかりです
自分の考えで進むことが当たり前の今の時代にあっても
クリスチャンにとって「神に聞く」ことは一番大切なこと
社会にあって人はまず有力者に頼りますが
すべてのものを支配する神に頼るのがクリスチャンの基本だからです
イエスご自身は
昔も今も生きて働く全能の神
その神をわたしたちは愛し、また愛されて
信頼関係を築く信仰生活を送っていきましょう
<目次