今週のみことば


1月23日


「エフタは主に誓いを立てて言った
『もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら
わたしがアンモン人との戦いから無事に帰るとき
わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします
わたしはその者を、焼き尽くす捧げ物と致します』
こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った
主は彼らをエフタの手にお渡しになった」
(士師記11章30-32節)

アンモンの人々がイスラエルに戦争を仕掛けてきた時
ギレアドの長老たちはエフタを指揮官にしようと計画し
彼がアンモン人と戦って勝利したなら
エフタをギレアド族の首長にすると取引を持ちかけます

元々エフタはギレアド首長の子どもで勇者でしたが
遊女との間に生まれたために家から追い出され
ならず者を集めて一緒に行動するようになっていました
そこで、アンモン人によって窮地に陥ったギレアドの長老たちは
勇者である彼に頼ることになったのでした

ここにおいてエフタは
自分がアンモン人に勝てばギレアドの首長になることを確認して
アンモンの王に使者を送って説得しようとしますが
アンモンの王は彼の言葉を聞こうとしなかったので
ここから戦いは始まります

戦いに及んで、神の霊がエフタに臨んだ時
彼は神に対して誓いを立てました
もしアンモン人に勝利できたあかつきには
自分の家から一番に出て来る者
焼き尽くす捧げ物にするというのです

その後
神はアンモン人をエフタの手に渡しイスラエルは勝利しました
そしてエフタが自分の家に帰った時
一番に出てきたのは何と自分の愛する一人娘だったのです
「彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った
『ああ、わたしの娘よ
お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者となるとは
わたしは主の御前で口を開いてしまった
取り返しがつかない』」(35節)

こうしてエフタは自ら立てた誓いの責任を取って
娘を失うことになるのでした

アンモン人との戦いにおいて
神はイスラエルを憐れんで勝利を与えてくださいました
これによってエフタはギレアドの首長の座を手に入れましたが
同時に一番大切な者を失うことになってしまったのは
彼が大きな過ちを犯していたからです

エフタの過ちとは
神に誓いを立てて取引をしようとしたことです
しかも人間を殺して捧げ物にするという
神が最も嫌われることを約束したのでした

戦いの勝利はすべて神の御意思によるものであり
何かを捧げる代償に勝利を求めるのは間違いです
これは、捧げ物によって願いをかなえようとする偶像の習慣と同じですが
キリスト教であっても
このような習慣が入ってくると別の偶像教になってしまうことを
わたしたちは注意しなくてはなりません

「しかし、わたしは言っておく
一切誓いを立ててはならない
天にかけて誓ってはならない
そこは神の玉座である」
(マタイによる福音書5章34節)


自分の願いのために、神の前に安易なことを言う時
その責任は自分に返ってくるのだと
エフタの過ちは教えています
信仰者は
”神さまがわたしの願いを聞いてくださったならわたしはこうします”
などと言うのではなく
ただ神を信頼し、祈って自分のすべきことをすればいいのです
そこに何が行われるかは「神の領域」なのですから
人間が注文をつけるわけにはいきません

アンモン人との戦いにおいてエフタは
神がついていてくださるから大丈夫!との信仰に立つことができませんでした
神が求めているのはただその”信頼する心”だというのに
エフタは心よりも目に見える捧げ物が重要と思ったのです

しかも、彼は自らの過ちを悔いることもせず
結局、一人娘を失っていきます
神は愛の方ですから
エフタが神の前に悔いれば許されたのではないでしょうか?!

わたしたちも神の前に「失敗した」と思うことがあれば
まず悔いて祈ることです
心を見る神は
わたしたちの心からの祈りを無視される方ではありませんが
それを信じることができなければ
結局エフタのように
最後まで自分で責任を取らなくてはならなくなるでしょう

なお、異教徒の風習である「人間のいけにえ」を神は嫌われるということは
以下に記されています

「あなたの神、主に対しては彼ら(異教徒)と同じことをしてはならない
彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い
その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである」
(申命記12章31節)


「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ
あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」
(レビ記18章21節)


このように、神は人間を捧げものとすることを嫌われますが
一度だけ、アブラハムにイサクを捧げるよう命じた個所があります
しかし、ここでは最終的に
イサクの代わりに動物が燔祭として用意されていました

このアブラハムに対する試みは神から出たものです
そのため、神の言葉に従ったアブラハムは
イサクを殺すことはありませんでした
しかし、エフタの誓いは彼自身から出たものでしたから
そこには代わりの燔祭は用意されませんでした
”神から出たもの”と”人間から出たもの”の違いははっきりしています

人生において様々な戦いのうちに置かれた時
わたしたちは神と取引したりしないで
だた助けを求めて祈って進んでいきましょう
その素直な信仰こそ神に喜ばれるものです
本当の信仰とは何なのかを
エフタの過ちを通して学び
各々の信仰生活に生かしていくことができますように



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