今週のみことば
2月20日
「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので
ある人が妻と二人の息子を連れて
ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ
その人の名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい
ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった
彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ
夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ」
(ルツ記1章1-3節)
やがて二人の息子たちはモアブの女を妻としましたが
10年後には彼らも死んで
ナオミと二人の嫁オルパとルツが残されてしまいます
その頃、神はイスラエルをかえりみて下さったので飢饉は解消したと聞き
ナオミはベツレヘムに戻ることにしました
二人の嫁に対しては、自分の里に帰るように勧めたところ
彼女たちはナオミと一緒に行くことを強く希望します
しかし、ナオミが説得した結果、オルパは別れることにしましたが
ルツはどうしてもついていくといって聞きませんでした
「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」(16節)
ルツはそう言って生涯イスラエル人として生きる決意をしていたのです
ルツの決意が固いのを知って
ナオミはルツを連れてベツレヘムに帰りました
「ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき
女たちが、ナオミさんでがありませんかと声をかけてくると、ナオミは言った
『どうかナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください
全能者がわたしをひどい目にあわせたのです
出ていくときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです
なぜナオミ(快い)などと呼ぶのですか
主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに』
ナオミはこうして、モアブ生れの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た
二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった」
(ルツ記1章19-22節)
頼りにしていた夫に先立たれ
更には二人の息子にまで先立たれてしまったナオミは
失意のどん底にいて
「全能者がわたしをひどい目にあわせた」と、神に恨みごとを言いました
しかし
神の約束の地を離れてモアブに向かったのは
エリメレクとナオミの家族であったことを忘れてはなりません
その時には飢饉がおこったからそうしたわけですが
神から置かれたところを離れても、幸いになれるわけではないのです
たとえ厳しいところを通されても
そこで神にすがり、祈り求めていく者には恵みと憐れみがある
それを忘れてモアブの地に望みをおいた自分たちの間違いを
まず自らに問うてみなくてはならないでしょう
人間が良いと思ってする判断は
神にあって正しいとされることであるとは限りません
ましてや、与えられた地を離れたことについては
どんなところでも神は必ず助けてくださる方であることを
彼らは分かっていなかったから、ということになります
神は、信じて従う者を決して不幸にされる方ではありません
神の業は常に誉めたたえられるものですから
今は不幸に見えても
その先まで見てみない事には、結果はわからないのです
ならば今は納得のいかない結果になっても
動揺しないで、絶望しないで
神に望みをおいていく
そこから何が起きてくるのかを見ていきましょう
折しも、ナオミたちがベツレヘムに帰ってきたのは
ちょうど大麦の刈り入れ時でした
このシーズンには貧しい人々も落ち穂を拾い
何とか生きていくことができるのです
そのタイミングを見る時
愛の神は
必ず先の道を開いてくださることがわかるのではないでしょうか
この後ルツはボアズに出会い
やがて結婚して、その先にはダビデの系図に入れられるなどと
誰も想像しない事でした
それは世の中でいうところの「成功物語」ではありません
人間の都合とは違う神のご計画が進められる中で
そこに従う者には幸いがあることを知ることにより
わたしたちはそれを自分の信仰生活に生かすことが大切なのです
残念ならが多くの信仰者は
神が自分の願いを聞くのは当然だと思っています
しかし、そういう間違った信仰から離れないと
本当に平安な日々を体験することはできません
思うようにならない時には、その後がどうなるのかを見る
それにはまず信じない事には何も始まらないでしょう
人間には心があるので
誰でも面白くない事があれば、そればかりが心を占めてしまいます
そこで心が停滞すると、教会へ行っても恵まれず
平安を得ることもできません
”置かれたところで、今、自分は何をすべきなのかを考える”
こうして一歩踏み出していく時
必ず新しいことが起こります
2章でルツは、自ら畑に落ち穂拾いに出かけて
そこから新しい展開が始まるのでした
<目次