今週のみことば


3月12日


「ボアズはその親戚の人に言った
『モアブの野から帰ってきたナオミが
わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています
それでわたしの考えをお耳に入れたいと思ったのです
もしあなたに責任を果たすおつもりがあるのでしたら
この裁きの座にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください
もし責任を果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください
それならわたしが考えます
責任を負っている人はあなたのほかになく、わたしはその次の者ですから』」
(ルツ記4章3-4節)

ナオミの勧めでボアズの所へ行ったルツは
自分の今後の身の振り方をボアズに託しました
ボアズは
一族の家が絶えないようにする責任ある立場の「贖い人」ですが
彼よりも更にナオミに近い立場の「贖い人」がいるので
まずはその人と交渉するために町の門のところまで上っていきます
すると
ちょうどその当人が通りかかったので引きとめ
更には町の長老たちも集めて
その場でナオミの家の今後について
「贖い人」としての責任を果たす意思があるかどうかを問いました

その人はナオミの所有する畑地を買い取ることは承諾したものの
亡くなった息子の嫁ルツまで引き取って故人の名を残す義務も要求されると
とてもそこまではできないと責任を放棄します
そこでボアズは
イスラエルの風習にのっとり
贖い人としての責任の譲渡を認証するために
相手の履物を受け取ったのでした
こうしてボアズは正式にナオミの家の贖い人として公衆の前で認められ
今後ルツを妻とすることを宣言したのです

ルツはやがてみごもり男子を産みました
その名はオベド
オベドはエッサイの父であり、エッサイはダビデの父ですから
ルツはダビデ王の祖父を産んだことになります

また、ボアズの父サルマの妻は
エリコの城壁に住み、イスラエルの斥候隊をかばって助けられた遊女ラハブでした
彼女も元はイスラエルの民ではなくカナン人でしたが
イスラエルの神を信じてその民の中に加わり
モアブ人であったルツも同様にその血筋に加えられていったというわけです

更にダビデからソロモン、そしてレハベアムへと続く血筋は
長い年月を経てヨセフにつながり
その妻となったマリアが救い主イエスを産むこととなるのです
(この系図についてはマタイによる福音書1章に記されています)

イスラエルの血筋ではないラハブやルツがその系図に加えられていくのは
神の壮大なご計画の中のことでした
わたしたちの人生もまた
その神の大きなご計画の中にあって
人間的にはどうしようもないと思えるようなところに置かれても
必ず道は開けます

そもそもクリスチャンとは
人間を救う「贖い主」であるイエスの名による洗礼と聖霊を受けた者であり
ひとりひとりの中には聖霊が働いて
正しい方向へと導いてくださるはずなのです
ところが人間は弱いので
自分の情や欲といった感情が働くと
せっかく聖霊の導きがあってもそれを感じることもできませんし
正しい行動もできません
そのため、状況がいっこうに改善されないのです

ルツは、知らないうちにボアズの畑に入って落ち穂を拾っており
そこへたまたまボアズが視察に来ていたことが
ルツの人生の祝福の元となったわけですが
わたしたちの人生においても
今自分にとって何が幸いで、そのことがこの先どうなるのかは
人間の頭ではわからないことです

ルツ記には
”知らないうちに”とか”たまたま”とか”ちょうど”といった表現が出てきます
これらはすべて神のタイミングの中で成されていることなので
人間が計算して起こったことではありません
このように”知らないうちに”幸いな方へと進んでいるうちはいいのですが
反対に
”知らないうちに”悪い方向へ歩んでいる場合もあることに
わたしたちは気づいていかなくてはならないでしょう

救われたクリスチャンは神の正しい道を歩む者とされていても
その道には常にサタンのワナがあって
それは教会の中にまで問題として持ち込まれることがあります
本来なら恵まれるはずの教会の中にもワナがあり
もしその人の心にすきができて、神から離れていくならば
知らないうちにサタンに用いられていくこともあるのです

わたしたちが神によって「贖われた(救われた)」からには
もはや人間の情や欲に支配されることなく
「神による自由」を得ているはずであっても
その自由をはきちがえて、神の心に反することをするなら
どうしてその人が神に祝された者となれるでしょうか

ルツにとってボアズが贖い人であったように
わたしたちにとっての贖い人は、神ご自身である救い主イエスです
全人類の罪を贖うために十字架にかかって血を流し
その血をもって救いの道を開いてくださった
それによってサタンから束縛されない、つまり「神のもの」となったのに
なおも自分の情と欲で間違った道に歩む危険性があるということを
わたしたちは心に留めておかなくてはならないでしょう

こういう人は
神の言葉を自分の都合よくすりかえ
神が自分の計画通りに動くことをだけを願って
自らが反省し教えられることがありません
それは、せっかく壮大な神のご計画があることを知らず
あるいは知ろうともせず
ただ自分の思いを正しいと信じて歩む人の果ての姿なのです

「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても
それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら
そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります」
(ペテロの第二の手紙2章20節)


”救い主イエス・キリストを深く知って”=イエスの名による救いを受けても
わたしたちはなお多くの惑わしのあるこの世に住んでいます
その中でどう生きていけばいいのかを聖書に学び
何が神に喜ばれることであるかを知っていきましょう

「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」
(エペソ人への手紙5章10節)

以前、ルツ記は決して成功物語ではないと書きました
これは人間の計画によるものではなく
神のご計画のうちを歩まされる者の幸いについて教えているからです

神のご計画とは何なのか
それがわかるためには
聖霊の働きが分かる柔らかい心が必要です(=魂の成長)
この世に生きる限り多くの試練はありますが
どんな時も祈って行動し
自然と幸いな方向へ導かれる祝福を体験できますように



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