今週のみことば


4月9日


「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった
この祭司たちは、人々に対して次のように行った
だれかがいけにえをささげていると、その肉を煮ている間に
祭司の下働きが三つまたの肉刺しを手にやってきて
釜や鍋であれ、鉢や皿であれ、そこに突き入れた
肉刺しが突き上げたものはすべて、祭司のものとした
彼らは、シロに詣でるイスラエルの人々すべてに対して、このように行った
そればかりでなく、人々が供え物の脂肪を燃やして煙にする前に
祭司の下働きがやってきて、いけにえをささげる人に言った
『祭司さまのために焼く肉をよこしなさい
祭司は煮た肉は受け取らない。生でなければならない』
『いつものように脂肪をすっかり燃やして煙になってから
あなたの思いどおりに取ってください』と言っても
下働きは『今、よこしなさい。さもなければ力ずくで取る』と答えるのであった
この下働きたちの罪は主に対するはなはだ大きな罪であった
この人々が主への供え物を軽んじたからである」
(サムエル記上2章12-17節)

祭司エリの二人の息子ホフニとピネハスは
どちらも祭司でありながら
その職権を乱用し、供え物の肉を常に横取りしていました
この他にも女性問題を起こしたりと
彼らの悪い噂は父親であるエリを悩ませていたので
すでに年老いていたエリは息子たちに悔い改めるようさとすのですが
彼らは父の言葉に耳を貸そうとはしませんでした
そのため
神はついに彼らの命を絶つことを決められたのです

神に仕える立場である祭司が
神へのささげものを奪うということは
すなわち、神を軽んじる行為です
彼らは「主を知ろうとしなかった」と記されているように
祭司職にあっても
神がどのような方であるかを知ろうとせず
罪について悔い改めることもしませんでした

「主は何事も知っておられる神
人の行いが正されずにずむであろうか」(3節後半)

ハンナが祈りの中で語っているこの言葉は
神を信じない人には理解できない事です
そのため
自分が罪を犯しても、どうせ神さまなんて見ていないと思えば
そのまま平然と罪を犯し続けることとなり
神から祝されるはずの祭司の家に生まれながら
エリの二人の息子たちは同じ日に死に
やがてエリの家は惨めな状態になると預言されたのでした

「イスラエルの神、主は言われる
わたしは確かに
あなたの家とあなたの先祖の家はとこしえにわたしの前に歩む、と約束した
主は言われる
だが、今は決してそうはさせない
わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる」(30-31節)

その後、エリの家の男子はみな早死にすることになり
神に対して忠実な者が他に祭司として立てられて
エリの家の生き残った人々は
この祭司に物乞いをするようになると記されています

エリの家が神の祝福を失い、ここまでひどい有様になっていった理由は
その息子たちが「神を軽んじた」からです
祭司職でありながら神を畏れない彼らは
捧げものを奪い、自分の思い(欲)のままに行動しました

このような神を軽んじる言動は
実はクリスチャンにも見られるものです
中でも一番大きな罪は
本来なら神に帰すべき「栄光」を自分のものにしてしまうことでしょう

悩みの中で神に出会い、無償で救われ、恵みを受けた日々を忘れ
いつの間にか自分の力ですべてをなしとげてきたと錯覚する
ここまでどれほど大きな神の愛によって支えられてきたかということよりも
自分の頑張りへの賞賛を望むようになる
そんな間違いを犯す恐れは誰にでもあるのです

聖書の歴史は戦いの歴史ですが
これはわたしたちの心の内側にあるものと、真理(神)の教えとの戦いであり
心の内側にある歪んだ価値観を正し
つい欲に負けてしまう出来心から離れるには
「神にあって成長する」ことが必要になります
エリの息子たちにはそのための教育がなされていませんでしたから
彼らには「神に喜ばれる者となる」成長がなかったのです

一方
乳離れするや、すぐに母親の元を離れてエリにあずけられた幼子サムエルは
神の元ですくすくと成長していきました

「一方、少年サムエルはすくすくと育ち
主にも人々にも喜ばれる者となった」(26節)


同様に21節にも
「少年サムエルは主のもとで成長した」
と記されています

同じエリという祭司を師として学んでも
息子たちは神を軽んじ
サムエルは神を重んじた
そして
「わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる」
と神ご自身が語られたとおり
両者の運命は全く反対へと分かれていくのでした
これはハンナの祈りの中にある言葉のとおりです
「主は何事も知っておられる神
人の行いが正されずにずむであろうか」(3節後半)


神から見れば、わたしたちはいくつになっても「子ども」で
生涯、神のもとにあっての成長が必要です
神による正しい教育がなされないと人の心は歪んでしまいますから
そのために教会があるわけですが
同じように教会に集っていても、信仰の成長は同じではありません
中でも
神の栄光を自分のものにしてしまう人は
たとえ長年教会に行っていても
その間違いを悔い改めない限り、信仰の成長がないのです

「幼子はたくましく育ち、神の恵みに包まれていた」
「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」
(ルカによる福音書2章40節、52節)


神であるイエスご自身は
その生涯をもって人のあるべき姿を教えています
人が成長する過程においては色々な試練がありますが
「神のある人生」は「愛のある人生」
色んなことは起こっても、神を信じ、仕えていく心があれば
そこにはいつも恵みと助けがあり
神による知恵を得て進んでいくことができます
このように苦労の中で神の助けを体験する時
それを神の恵みと感じることができるでしょうか?
その「恵みを感じる心」があって、はじめて感謝が生まれ
わたしたちは「神に喜ばれる者」として成長していけるのです

「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え
そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる
わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」
(ヨハネによる福音書12章26節)


「神に喜ばれる人」は、すなわち人にも喜ばれる人ですが
そのような人になりたいと思うなら
「神に仕える者」となり、「神に従う」ことが必要です

心の中の信仰は常に試されていて
それは決して楽しいものではないにしても
そこを通らなければ信仰の成長はありません
その時の戦いの相手は「自分の内側にある思い」であり
神を信じるからこそ、その戦いに勝利ができるわけです
もし信仰の成長がなければ
「自分の内側にある思い」は取り除かれず
それが自分の人生にとって災いの元となるでしょう

ヨシュア記の23章では
イスラエル人が神の恵みを忘れて神から離れていくなら
この先もう神は彼らの敵を追い払わないと記されています
エリの息子たちは神を軽んじ
その結果としてエリの家には長命の者がいなくなりました
これは頼りにできる経験者(知恵者)がいないということですから
家を正しく導く者もいないまま
滅びの道をたどっていくことを表しています

わたしたちの人生も
知恵者である神がいなくなると、物事は上手くいきません
今の生活も平安もすべては神の恵みによるもので
決して自分の栄光にしてはならないのです

神の国に行く者として正しい心をもつようにと
わたしたちの人生の教育は続きます
その歩みの根底にあるのが「神の愛」
人間は厳しさばかりの中では生きていけない事をご存じの神は
信仰のレベルに応じた、「愛のある教育」でもってわたしたちを導いてくださいますから
それぞれが置かれたところにあって
どんな時にも神を信頼し
幼子サムエルのようにすくすくと成長していくことができますように



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