今週のみことば


4月16日


「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた
そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった
ある日、エリは自分の部屋で床についていた
彼は目がかすんできて、見えなくなっていた
まだ神のともし火は消えておらず
サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた
主はサムエルを呼ばれた
サムエルは『ここにいます』と答えて、エリのもとに走って行き
『お呼びになったので参りました』と言った
しかし、エリが『わたしは呼んでいない。戻ってお休み』と言ったので
サムエルは戻って寝た」
(サムエル記上3章1-5節)

この時、少年サムエルは初めて神から呼ばれたのですが
それが神の声とは思わず、エリの所へかけつけました
そんなことが3度続いたので
エリはその呼ぶ声が神であることを告げ、次回からは
『主よお話しください。しもべは聞いております』と言うように指示します

それからまた『サムエルよ』と神から呼ばれたサムエルは
ここでエリの家に今後起こることを告げられました
その内容があまりに悲惨なものだったので
エリに話すことを恐れていると
反対にエリから、正直に話さないと神から罰せられると脅され
結局すべて話すこととなりました

「主はサムエルに言われた
『見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う
それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう
その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて
初めから終わりまでエリに対して行う
わたしはエリに告げ知らせた
息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら
とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と
わたしはエリの家について誓った
エリの家の罪は、いけによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない』」
(サムエル記上3章11-14節)


その内容は、エリ自身も神から告げられていたので
彼はその言葉を受け入れました
「エリは言った『それを話されたのは主だ
主が御目にかなうとおりに行われるように」(18節)


年老いて、すでに目も見えなくなったエリですが
祭司として長年神に仕えてきた彼には
「神のおごそかさ」というものがよくわかっていましたから
祭司でありながら自分の息子たちに正しい教育ができなかった過ちを認め
この厳しい内容もそのまま受け入れようとしたのでしょう

「サムエルは成長して行った
主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」(19節)

エリのもとで成長して行ったサムエルには神が共におられたので
彼の語る言葉はどれも無意味に終わることがありませんでした
このように、まだ年若いサムエルであっても
神はその魂(信仰)を成長させ、一人前の祭司として用いられたのです

ここで教えられるのは
「神と共にある」という歩みをしてこそ初めて信仰は成長するということ
信仰歴という年数は、年を重ねるほど自然に長くなりますが
それと信仰の成長は別問題です
「信仰する」とは
神の言葉を聞いて、受け入れて、従っていくことであり
そこから初めて信仰はスタートするのです
「実に、信仰は聞くことにより
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」
(ローマ人への手紙10章17節)


ところが、自分の中に神の言葉を受け入れる用意がなければ
いくら聖書を読んでも、素直に受け止めることはできません
「キリストの言葉があなたがたのうちに豊かに宿るようにしなさい
知恵を尽くして互いに教え、諭し合い
詩篇と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」
(コロサイ人への手紙3章16節)


”キリストの言葉があなたがたのうちに豊かに宿る”ためには
その言葉を真摯に受け止めようとする心が必要ですが
「自分の思い」がそれを邪魔してしまい
その結果、「聞けない→従えない」ということにもなりがちです
しかし
神の言葉をないがしろにして、自分の思うまま行動し
成ってきたことの責任を神に問うのは愚かなこと
信仰歴が長くなり
「信仰が」「神さまが」と言った言葉を簡単に使うようになっても
自分がどのように生き、何を残していくのかと問われた時
わたしたちはどう答えるのでしょうか

結局、「神のおごそかさ」がわからないまま
ただ信仰信仰と言っていても
自分自身がいかに変わっていくべきかを求めないなら
耳に痛いことは、聞くことも受け入れることもできないでしょう

信仰は
自分にとって耳に痛いことを素直に受け止める心があってこそ成長します
自分の人生の失敗を人のせいにして逃げることはできず
神の目をごまかすこともできません

エリは自分にとって辛い話は聞きたくもないでしょうし
サムエルもそんな話を自分の先生であるエリにしたくはなかった
それでもお互い「神のおごそかさ」を知るがゆえに
サムエルは話し、エリは聞いて、真摯に受け止めていきます

「神のおごそかさ」を知り
すべてのことを謙虚に受け止めて歩むのが
信仰者の取るべき道
このことが分かっていれば、人は傲慢になることはありません
反対に
神の言葉が受け入れられなくなった時には
信仰もそこで終わってしまいます

祭司の家に生まれたエリの二人の息子たちは
神の前に謙虚に生きることを知らないままでした
わたしたちはその過ちを教訓とし
神の言葉を真摯に受け止める信仰者として
成長していくことができますように



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