今週のみことば


6月4日


「若者は答えた
『ちょうどこの町に神の人がおられます
尊敬されている人で、その方のおっしゃる事は、何でもそのとおりになります
その方を訪ねてみましょう
恐らくわたしたちの進むべき道について、何か告げてくださるでしょう』」
(サムエル記上9章6節)

ベニヤミン族にキシュという名の勇敢な人がいました
彼の息子サウルは美しい若者で
民の誰よりも背が高い人でした

ある時、ロバが数頭いなくなったことから
キシュはサウルに、若者を連れてロバを探しに行くように命じます
サウルは供の若者と一緒に遠くまで行きましたが
ロバを見つけることができなかったので
若者に対して、父が心配するだろうからもう帰ろうと言いました
その時、若者は
ツフの町にいるという「神の人」を訪ねようと提案します

「昔、イスラエルでは神託を求めに行く時、先見者のところへ行くと言った
今日の預言者を昔は先見者と呼んでいた
サウルは若者に言った
『それはいい。さあ行こう』
彼らは神の人がいる町に向かった」
(サムエル記上9章9-10節)


こうしてサウルたちは
「自分たちの進むべき道」を知るために先見者の所へ行きました
サウルの供である若者は
自分たちだけの考えで判断するよりも
まず神の導きを聞こうとしています
イスラエル人は、神の祝福や恵みを知っているので
自分の心(考え)を第一とする歩み方はしないのが基本だからです

さて、わたしたちクリスチャンにとっての先見者とはだれでしょうか
それは神であるイエスご自身に他なりません
そして、なぜ先見者のところ(教会)へ行くのかと言えば
わたしたちが活かされるところの「命の道」を知るためなのです

「あなたは、命に至る道をわたしに示し
御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる」
(使徒行伝2章28節)


このように
神の前に出てくることの意味は
その人の人生が幸いになる道を示されるためであり
そこでは神の言葉に基づく正しい導きが求められます

学校にあって、良い先生とは
生徒一人一人の持っている資質を知って、それを活かしていける人
反対に、悪い先生は
自分の考えや理想ですべての生徒を同じようにしばろうとします

一方、教会にあっては
牧師であれ、信者であれ
各々が神から与えられた資質をどのように活かそうとしているのか
そこに自分の考え(欲)が働き
神の導きから外れていないかどうか
よく考えてみる必要があるでしょう

あくまでもクリスチャンは
神の御心のままに導かれるもので
その基準はいつも神にあるはずです
ところが、人間にはそれぞれの考えがあり
自分の知恵でもって進もうとするほど
神の道(命に至る道)はどんどんわからなくなってしまいます
信仰者と名のる人の中にも
自分の思いを通すために神の言葉を都合よく用いる人がいますが
こういう人は、神を信じていません

「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが
わたしたち救われる者には神の力です
それは、こう書いてあるからです
『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし
賢い者の賢さを意味のないものにする』」
(コリント人への第一の手紙1章18-19節)


聖書には
人がいかにして救われ、いかに生きるべきかが記されています
その言葉は単なる言葉ではなく
言葉そのものが神の力であり
クリスチャンはその言葉によって力を得、正しく導かれていくのです
それは
知恵ある人から見れば愚かなことに見えるかもしれません
自分はクリスチャンだという人であっても
自分は知恵があり、賢く、正しいと思い
神の心がどこにあるのか理解できない人もこれと同様です

イスラエル人が先見者に導かれていったように
わたしたちにも先見者が必要です
人間には自分の人生の一寸先でさえ見えないのですから
それをどうして自分で正しく判断できるでしょうか

人間の知恵は最強だと
神を知らない人は、神を侮りますが
この世の知恵では、本当に幸いな「命の道」はわからず
かえって逆のことをしてしまうこともあるでしょう

そういう人は
自分があがめられる道を求めており
神があがめられる道にこそ祝福があることを知りません
ちょっと用いられると人はのぼせて
自分が偉くなったように思いがちですから
聖書のみことばを通して、そのような思いを悔い改め
神の導きに従える人は幸いです

サウルと若者は
自分たちの願いがかなうためではなく
進むべき道を示されるために
先見者のところへ行きました

自分の願いがかなうことは人の望みではありますが
人生の先の先まで見通した神の導きこそが
クリスチャンの求めるべきものです
かつては常にそうしてきたイスラエル人であっても
時代を経るとだんだん自分の考えが中心になっていったように
わたしたちの心も状況次第で色々変化するかもしれません

マタイによる福音書13章には
「毒麦」のたとえがあり
神の許しのうちに畑の中では良い麦も毒麦も共に生長し
最後の時に毒麦は抜かれて焼かれると記されています

教会の中にあっても
神の心に習おうとする良心的な人もいれば
神の心を理解しない人もおり
あるいは一人の人の心の中にも
いつもさまざまな思いが巡っていることでしょう

神の導きで進もうとする人も、自分勝手に進もうとする人も
それぞれ生き方は自由です
ただしその責任は自分でとらなくてはなりません
自分勝手に歩んで、それが上手くいかないと
ズルイ人は他人のせいにし、神のせいにする人まで出てきますが
何事も自分の意思でやっていることを自覚して
その結果を真摯に受け止め
神の前に祈ることが大切です

「神は御心のままに満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ
その十字架の血によって平和を打ちたて
地にあるものであれ、天にあるものであれ
万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」
(コロサイ人への手紙1章19-20節)


人間は心の定まらない弱い者でありますが
十字架の血による救いにあずかることで
神との間に平和がもたらされることとなりました
せっかくそのような立場にされたのですから
神の言葉をどのように受け止めていくのかを自分に問いかけ
正しい判断をして
神に喜ばれる道を歩んでいくことができますように

「あなたの天幕に場所を広く取り
あなたの住まいの幕を広げ
惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て
あなたは右に左に増え広がり
あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ
荒れ果てた町々には再び人が住む」
(イザヤ書54章2-3節)


心の中にしっかりと神の住まいを広げて
その信仰を堅くしていきましょう
そうすれば必ず祝されるとの約束がここにあります

人には多くの考えがあり、様々な不安もあるでしょう
それでも、世の中にどんな事があっても
神は信じる者を見捨てることなく
憐れみをもって守り導いてくださいます
そのことに希望をおいて
新しい週も踏み出していきましょう

「山が移り、丘が揺らぐこともあろう
しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
あなたを憐れむ主は言われる」

(イザヤ書54章10節)



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