今週のみことば


6月11日


「サウルは答えて言った
『わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし
そのベニヤミンでも最小の一族の者です
どんな理由でわたしにそのようなことを言われるのですか』」
(サムエル記上9章21節)

父の命令でロバを探しに出かけたサウルは
どこまで行っても見つけることができず
供の若者の勧めにより、先見者サムエルに会いに行きます

一方、サムエルには
神からこのような言葉が告げられていました
『明日の今ごろ、わたしは一人の男をベミヤミンの地からあなたのもとに遣わす
あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ
この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う
民の叫び声はわたしに届いたので、わたしを民を顧みる』(16節)


そんな事情を何も知らず訪ねてきたサウルに対して
サムエルは一緒に食事をすることを勧めました
そして
サウルが探していたロバは既に見つかっているので心配ないことと
サウル自身が背負っている大きな役目について
『全イスラエルの期待は誰にかかっているとお思いですか
あなたにです
そして、あなたの父の全家にです』(20節)

と告げるのです

それを聞いたサウルは非常に驚き
自分のような小さな部族の中の最小の一族の者が
どうしてそのような大きな役目をすることになるのかと問いました
驚くサウルにサムエルは、ただ食事を勧め
しかもその食事がサウルのために特別にとっておいたものであることを説明します
こうして新しい指導者としての丁重なもてなしを受けた翌日
サウルはサムエルからイスラエルの王として油を注がれたのでした

ここではサウル自身も言っているように
イスラエルで一番小さな部族の
しかも最小の一族であるサウルの家が選ばれ
サウルがイスラエルの王となることは
人間的に考えればとても不思議なことでしょう
しかし、神の選びというものに
人間の大きい小さいは関係なく
そこに人間的な尺度は当てはまらないのだということが教えられます
いつも言っているように
教会にあっても信仰歴の長さで人は信仰を測ろうとしますが
神の見方は違うのです

さて、イスラエル初めての王はこのような形で誕生したわけですが
神による統治よりも人間の王による統治を求めることは
イスラエルの民にとって幸せなことではありませんでした
それでも彼らは王を切望し、神はそれを許されたのです

そもそもイスラエルに王が誕生するずっと前の時代から
”王の心得”について以下のように記されていました

「あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入って、それを得て、そこに住むようになり
『周囲のすべての国々と同様、わたしたちを治める王を立てよう』と言うならば
必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい
同胞の中からあなたを治める王を立て
同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない
王は馬を増やしてはならない
馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない
『あなたたちは二度とこの道を戻ってはならない』と主は言われた
王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない
銀や金を大量に蓄えてはならない
彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り
それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び
この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない
そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく
この戒めから右にも左にもそれることなく
王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つことができる」
(申命記17章14-20節)

ここには
王たるものは、神の戒めを守り、自分の私利私欲に走ってはならない事と
何より”神なる主を畏れること”を第一として進むべきことが記されています
神によって選ばれたサウルが
もし本当にこれを守ることができたなら
彼はイスラエルを長く統治したことでしょう
しかし、彼はそうなりませんでした

人間が王になるということは
すなわち人間の思いが第一になるということです
最初は、自分を小さな者だと言っていたサウルも
だんだん偉くなって神の言葉に従わなくなりました
人間は弱く、すぐに思いあがる生き物ですから
そこに神を思う心がなくなれば
たちまち間違いをおかすこととなるのです
もし、わたしたちの心の中に、神ではなく自分を王とする思いがあるなら
サウルと同じことになってしまうでしょう

自分を王とする人は、欲に負けて私腹を肥やし
自分の感情にまかせて行動し
神の言葉(聖書のみことば)でさえ、自分の都合よく曲げてしまいます
こうして信仰はだんだん貧しくなっていくのです

ヨハネによる福音書13章において
イエスご自身が弟子の足を洗う”洗足式”の場面では
「わたしがあなたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(15節)
と記されているように
クリスチャンは
イエスご自身がどのように歩まれたかを模範として
その愛の心に習う者となるべきことが教えられています
ところが
その模範を忘れて自分が王として好き勝手に生きるなら
それは神に喜ばれることではありません

イスラエルは
サムエルの時代までは神に聞き、神の知恵に頼っていました
その時には、取るに足らない小さな者が選ばれ
神によって大いに用いられています
このように
神の言葉に従う時には、そこに神の業が伴いますから
それをもって本当に従っていることが分かるわけです

これに対して
神を忘れ、人間が王として君臨していく時には
状況は危いものとなっていきます
世界中の学者が世界経済について色々考えて動かそうとしても
人の知恵には限界があり
いつも問題が絶えないように
神のいない人生にはいつまでも平安がないのです

わたしたちは何も持たない者であっても
神の言葉のうちにとどまっておれば、そこに神の助けがあり
どんな時にも平安が伴います
そのことを忘れないで
神と共に歩む日々を送っていきましょう



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