今週のみことば
6月18日
「サムエルはミヅパで主のもとに民を呼び集めた
彼はイスラエルの人々に告げた
『イスラエルの神、主はおおせになる
”イスラエルをエジプトから導き上ったのはわたしだ
わたしがあなたたちをエジプトの手から救い出し
あなたたちを圧迫するすべての王国からも救いだした”と
しかし、あなたたちは今日
あらゆる災難や苦難からあなたたちを救われたあなたたちの神を退け
”我らの上に王を立ててください”と主に願っている
よろしい、部族ごと、氏族ごとに主の御前に出なさい』」
(サムエル記上10章17-19節)
イスラエルの民の前で、いよいよ王が選ばれる日が来ました
サムエルはイスラエルの全部族を集め、くじを引かせます
するとくじはベニヤミン族に当たり
その中のマトリの氏族が当たり
最後にキシュの息子サウルが選び出されました
その前にサウル自身はすでに王としての油を注がれていましたが
ここにおいて会衆の面前で正式に選ばれたのです
ところが彼は荷物の間に隠れていたので
そこから民の前に引き出されると
民の誰よりも肩から上が出ている体格の立派の男だったため
民は喜んで「王様万歳」と叫んだのでした
ここにイスラエル初代の王が誕生しました
そのことは、神に喜ばれることではありませんでしたが
神は民の願いをかなえたのです
”イスラエルをエジプトから導き上ったのはわたしだ”
この神の言葉も
もはやイスラエルの民には響かない状態でした
どんな悩みの日にも必ず彼らを助け導いてきたというのに
彼らはそれを忘れて人間の王を求め
神はそれを許されました
この事により、いよいよ彼らの心は神から離れていくのです
「彼らはたちまち御業を忘れ去り、神の計らいを待たず
荒野で欲望を燃やし、砂漠で神を試みた
主はその願いをかなえられたが、彼らを衰えさせられた」
(詩篇106篇13-15節)
この最後の一行は文語訳では以下のように記されています
「エホバは彼らの願欲(ねがひ)をかなへたまひしかど
その霊魂(たましひ)をやせしめたり」
イスラエルの民はいつも神の助けを忘れ、神のご計画というものを考えず
常に自分たちの欲望が満たされることを神に求めていました
そこで神は彼らの願いをかなえるのですが
同時に彼らの”霊魂(たましひ)”はやせていくのです
その結果、先に待っていたのは
指導者への裏切りや、偶像を作る行為であり
その悪事を行った者たちはみな滅ぼされるのでした
信仰者は
自分が苦しみや悩みの中で戦ってきた時代のことを忘れてはなりません
その歴史こそが神による助けの証明だからです
かつてどんなに辛い絶望的な状況にあった人でも
救われて今日に至るまでには
様々な不思議な助けがあったからこそ今があるはずですが
大きな奇跡を体験した人ほど
なぜかその感謝を忘れていきがちなのです
信仰者の”たましいがやせる”と
神がどういう方か分からなくなり、神などどうでもよくなります
こうして神が恐くなくなっていくと
もはや信仰の道は消えたも同じです
わたしは神に救われたクリスチャンだと言っていても
その神を恐れていないなら
自制心が働かず
心がおごって、自分の欲望を追求するばかりになるでしょう
そして
自分がそのような状態になっていることもわからないまま
神の心に反する愚かな道を歩むようになるのです
体格が良く、イケメンのサウルを見て
イスラエルの民は「王様万歳」と喜んだように
人はいつも外見を見るので
その人が”人より立派であること”を重視します
しかし
外見が立派であることが幸いに結びつくとは限りません
世の中には大きなワナがあって
人の財力や知識や見栄えで全ての難局が乗り切れるわけではないからです
また
人間の心の中には何らかの”やましい(良心に恥じる)思い”があり
それが災いの元ともなっていきます
神を捨て
人間の王を求めていくということは
すなわち非常に危い人に自分の人生をゆだねるということですが
そんな人間を王としてあがめることの空しさが
サウル王の今後を読む時にわかってくるでしょう
結局、人間にとって本当に幸いなのは
全ての専門家であり、パーフェクトな存在である神に導かれること
そして
その導きに対してわたしたち自身の心がおごり
”わたしはこうあるべき”と決めて
ただ立派な外観を追い求めていく時には
過去の感謝は忘れ
あれもこれも足りないと不平を言い続け
神を恐れず
信仰の道から外れていくことになるのです
神の御旨とは
いつも人の思いを越えた所にあります
人は自分の願いがかなえば喜びますが
そのためにかえって神を忘れるようなことになるのであれば
それは本当の幸せとは言えません
「わたしがあなたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」
(ヨハネによる福音書13章15節)
先週も引用したこのみことばは
イエスが弟子の足を洗う「洗足式」の場面ですが
ここで言う”模範”とは
「洗足式」としての形を習うことのみならず
クリスチャンが生きていく上で
イエスの御心に習うことの大切さを教えています
その究極の姿が”ゲッセマネの祈り”でしょう
十字架を前にして
非常に辛い試練をも神の御旨だからと受け入れる
わたしたちは実際に十字架にかかるわけではないにしても
とかく自分の思うようにはいかない人生と
どのように向き合っていくのでしょうか
サウルが王になる時には
”王たる者の心がけ”が示されました
王は神以外に心を奪われてはならず
その言葉に従って
きちんと自分の民を養っていかなくてはなりませんが
心からそれを守ることができるかどうか
サウルはそこを試されていきます
もしわたしたちが王になったらどうでしょう
この心がけを守れるでしょうか
自分がお金や権力を持った時
他の人に対して思いやりをもつことができるでしょうか
外観は立派になっても
心が貧しければ
キリスト・イエスに習う者としての
愛のある潔い行動はできません
信仰歴がどんなに長かろうと
物事が上手くいけば自分の信仰を誇り
上手くいかないと神に責任を問う人は
その心がけによっていつまでも神が分からないままです
わたしたちは神によって恵まれるほど
いよいよしっかりとした信仰をもっていかないと
せっかく建てた信仰の幕屋も倒れてしまいます
常に自分の原点を見据えて
神への感謝を忘れず
神を畏れ、その道に従っていきましょう
<目次