今週のみことば


7月23日


「主の言葉がサムエルに臨んだ
『わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ
彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果さない』
サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ」
(サムエル記上15章10-11節)

アマレク人との戦いにおいて
神はサムエルを通してサウルに告げました
アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ・・・と

ところが
サウルはアマレクの王を生け捕りにし
羊や牛の最上のもの、上等なものは
惜しんで滅ぼし尽くしませんでした

そのことによってサウルは神の怒りを招き
サムエルがそれについて責めると
サウルは
最上の牛や羊は神への捧げものにしようとしたのだと言い訳します

「サムエルは言った
『主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか
むしろ、主の御声に聞き従うことではないか
見よ、聞き従うことはいけにえにまさり
耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる
反逆は占いの罪に、高慢は偶像礼拝に等しい
主の御言葉を退けたあなたは
王位から退けられる』」
(22-23節)

この後やっとサウルは自分の罪を認めます

「サウルはサムエルに言った
『わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました
兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまいました
どうぞ今、わたしの罪をゆるし、わたしと一緒に帰ってください
わたしは、主を礼拝します」(24-25節)


しかし、どんなに悔いてもサウルが許されることはなく
この後、サムエルは死ぬまでサウルに会おうとはしませんでした
そして、神によって王位から退けられたサウルの代わりに
ダビデが次の王として選ばれていくのです

”アマレクの人も家畜もすべて滅ぼし尽くせ”
この命令は、人間的に考えれば残酷なものですが
イスラエル人がカナンの地に入って先住民との戦いを進めるにあたっても
神に敵対する民をことごとく滅ぼさなければ
やがて彼らのうちの残された者が災いの種となると記され
実際にそのようになっていった史実があります

この「神に敵対する民」は
人間の心の中にある「神に反する思い」のひな形であり
わたしたちはそれぞれ自分の心の中にあるところの
情や欲と戦っていかなくてはなりません

サウル王は、まさにこの情と欲に負けて
罪を犯してしまいました
特に、上等な家畜については
それを惜しいと思い、兵士たちからの圧力にも負けて
結局、神に従うことはできなかったのです

それについてサウルはもっともらしい言い訳をしていますが
本当に神を恐れる人ならば、神に従わなくてはなりません
こうしてサウルは
自分の心の中の思いに従って行動し
王位を追われていくことになるのでした

わたしたちの人生にも
さまざまな試練の場があって
そこで神と人とどちらの心を優先するのかが試されることがあります
世の中には監視カメラがあって
人の行動が見張られてはいますが
心の中を映す監視カメラがあるわけではないので
適当に言い訳をして逃れることもできるでしょう
しかし
その心は常に神に見られていると思えば
わたしたちは自分の心と戦わなくてはなりません

いわゆる「きれいごと」を言うのは簡単ですが
いざとなると、人は自分の本当の姿を見ることになります
例えば、自分に財産分与の権利がある時
すでに財産を持ち、生活に困っていない人であっても
人間には欲があるので、いくらでも欲しくなり
結局もめ事を起こしてしまうケースはたくさんあります
親の世話をしていない人が
財産だけはとろうとしたり
他にも様々なお金がらみのトラブルは、どこでも絶えずくり返されており
その根底には、人の欲が渦巻いているわけです
そして、わたしたちもまたその欲と無縁ではなく
いざという時に自分の分をわきまえた潔い行動ができるかどうかは
いかに「神の思い」に自分を近づけていくかにかかっているのではないでしょうか

もしわたしたちの人生に神がいなかったら
正しさの基準は自分に置くことになります
ところが人間には情と欲があって
完全に正しい行動をすることはできません
サウルは自分の心に従って行動し
間違いを繰り返し、王位を失いました

神に喜ばれるかどうかは
わたしたちの捧げものによるのではなく
その心が神に近づいているかどうかにかかっています
また
自分の心の中にある敵を滅ぼすために
神の心を大切にして歩むことを心がけると同時に
神の心をないがしろにする人とのトラブルを賢く回避することも大切です

サウルは人を恐れて間違った行動をしましたが
わたしたちは常に神がついていてくださるとの信仰を第一に歩み
神から離れない、平安な、祝された人生を歩んでいくことができますように



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