今週のみことば
7月30日
「サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ
いけにえの会食に彼らを招いた
彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め
彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った
しかし、主はサムエルに言われた
『容姿や背の高さに目を向けるな
わたしは彼を退ける
人間が見るようには見ない
人は目に映ることを見るが、主は心によって見る』」
(サムエル記上16章5-7節)
サウルが神によって王位を追われることが決まった後
サムエルはそのことを嘆いていましたが
神は新しい王を立てるため
サムエルをベツレヘムのエッサイの家につかわしました
エッサイの息子たちの中に
次の王になるべき人物がいると言うのです
いけにえの会食の場に集められたエッサイの息子たちを見て
サムエルはまずエリアブに目を留めました
その体格が立派で容姿も優れていたからです
ところがエリアブは選ばれませんでした
なぜなら
神は人間の価値観で人を見ないと言うのです
結局エッサイの7人の息子たちはみな神から選ばれず
食事に呼ばれなかった末っ子のダビデが連れて来られました
彼はまだほんの子どもでしたが
神はサムエルに対して
ダビデに王としての油を注ぐようにと命じます
そして、その日以来
神の霊が激しくダビデに降るようになりました
今回のみことばは
当教会の『2016年・年頭のみことば』でもあります
ここでは
”神は人間と同じ物事の見方をしない”こと
つまり
人間は外観で判断し、神は心で判断することが教えられています
ダビデの兄たちは
すぐに戦いに出ていけるだけの立派な体格を備え
王としての見栄えする容姿を持っていても
神は彼らを選ばず
羊を飼う子どもであったダビデが選ばれました
それは、彼の心に神に対する信仰があったからです
その証拠に
この後、17章で
ダビデは大男のゴリアテに戦いを挑みました
そして神の知恵と力を武器として戦いに勝利するのです
わたしたちは人を見る時、ついその外観に左右されてしまうため
相手の心を読むことができず
人選をあやまることがあります
口で言うことと、実際の行動が違う人のことは信用してはいけませんが
外観に惑わされると、物事を正しく見ることができないため
結果的に、サタンにほんろうされることになってしまうのです
神の霊が離れてしまい、神から来る悪霊にとりつかれたサウル王は
竪琴の名手であったダビデの演奏で心癒されるようになりました
彼が演奏すると、悪霊が離れ、気分が良くなったからです
しかし
神の霊が離れてしまったサウルは
終生、何度も悪霊に悩まされるようになりました
聖霊降臨以降
個人個人に与えられるようになった神の霊(聖霊)は
一時的に臨んだり、離れたりするものではありません
それでも
わたしたちの心に神を崇める信仰がなくなれば
人を惑わす悪霊に悩まされるようになるでしょう
教会は色んな人が訪れるところですが
もし牧師が、人の外観(財力や社会的地位など)に目を留めて
その人の価値を判断するなら
それは「世のもの」に惑わされた状態です
結局のところ
人間はどんな人も人間なので
”真実を見誤る危険性”を持っています
だからこそ
聖霊の導きによって正しく判断しなければ
情と欲に惑わされて間違った方向に行ってしまうかもしれません
ダビデは自分から王になろうとしたのではなく
神の導きによって選ばれ
油注がれた日から、実際に王として即位するまでの年月も
あせることなく、ただ神の導きに従いながら進んでいきました
このようなダビデの生き方は
”神に希望を置く生き方”でしたから
その心を神は喜び、彼は祝されていったのです
反対に、”神に希望を置かない生き方”は
自ら神を捨てた状態ですから
神から見た時には悪となります
サムエルの到着が遅いことであせったサウル王が
勝手に祭司の役目である燔祭をささげる行為をしてしまったことも
「待てない」「あせる」といった心の表れであり
それによってサウルは王位を追われることとなったのでした
信仰の世界は
神がわたしたちを愛して、受け入れてくださることに対して
わたしたちも神を愛し、信じて進み
その愛に対して神が答えてくださるというものです
うわべだけの信仰ではない
心からの信仰をもつ人は
周りの人に癒しと安らぎをもたらします
そのような人は、自分の損得のために動くことをせず
目立たないところでも重要な働きをして
神の業をあらわすのです
ダビデが神から選ばれたように
クリスチャンも神から選ばれた者ですから
それにふさわしい歩みができますように
その心が神に向いているかどうかを
改めて自分に問いかけてみましょう
そして
神に喜ばれる者となっていく歩みができますように
心新たに進みだしていきましょう
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