今週のみことば


1月7日


〜2017年の聖言〜

わが事によりて神を崇めたり

(ガラテヤ書1章24節)



今年当教会に与えられた年頭のみことばは上記の通りです

この23節から口語訳では
「ただ彼らは『かつて我々を迫害した者が
あの当時滅ぼそうとしていた信仰を
今は福音として告げ知らせている』と聞いて
わたしのことで神をほめたたえておりました」
と記されていますが
ここは使徒行伝9章において
キリスト教徒を迫害していたパウロ(当時サウロ)が
イエスを信じる信仰へと回心し
それ以降、熱心なクリスチャンとして伝道していることについて
そのあまりの変ぼうぶりに人々が驚き
神を崇めたというものです

当時イエスの弟子たちを脅迫し殺そうと意気込んでいたパウロは
ダマスコへの旅の途中で天からの光で地に倒れます
その時イエスの声を聞き、ダマスコの町に入るように命じられますが
その時、彼は目が見えなくなっていました

3日間目も見えず食事もしていないパウロを迎えに行ったのは
幻の中でイエスから命じられたアナニヤで
アナニヤが祈るとパウロの目からうろこのようなものが落ちて
再び見えるようになりました
そしてパウロは洗礼を受け、食事をして元気になり
すぐにあちこちの会堂で『この人こそ神の子である』と
イエスのことを宣べ伝えるようになったのです

このようなパウロは
自らの努力で変わったのではなく
神の力によって心が変えられていきました
しかし、回心したその後は
自らの損得を考えないで、ひたすらイエスを信じる信仰を守り抜いています
この姿こそ
「神の喜ぶ者」としての姿であり
クリスチャンはみな、洗礼を受けて救われるところまでは努力を要しなくても
救われた(回心した)後には
神の喜ばれる恵みの道を歩む者として
成長する努力をしていかなくてはならないのです

それについて具体的にわたしたちがどうあるべきか
ガラテヤ書では以下のように記されています
「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか
それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか
あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか
もし、今なお人の気に入ろうとしているなら
わたしはキリストのしもべではありません」
(ガラテヤ書1章10節)


ここに記された「人」とは他人のみならず自分も含まれます
自分の気に入るように自分の人生を送りたいと
誰しも思うのではないでしょうか
「恵みの道」と聞けば
それは
何か都合の良いものが与えられる道
すなわち自分の理想通りの道のことだと思いがちです
しかし
「恵みの道」とは、イエスと共に歩む道であり
自分の思うところとは別の所を歩まされても
それでも何とかなるものだとの恵みを感じる道なわけです
そして
その道を良しとして歩み
なおかつ、そこに起きてくる恵み(助け)の数々に感謝していくことが
「神の喜ばれる道」だということです

パウロも
イエスに捕えられて後
かつては自分の仲間であったイエスを迫害する人々から
自分も迫害される立場になりました
それでも
本当の信仰を知ったパウロの心は
大変な戦いの中で常にイエスと共にありました
それは
彼の心が本当にイエスに捕えられていたからです
そして
自分が持っていた地位も名誉も財産も
キリストの前にはすべて空しいものだと知り
損得を考えない人になりました

さて、クリスチャンとは
みなイエスに捕えられた(救われた)者ですが
いざという時、その心に神を忘れ
結局、人の力に頼ったりする人は少なくありません
また
人生が自分の思い通りに進む時こそ注意が必要で
それが本当に良いことなのかもわかりませんし
あるいは知らないうちに傲慢になり
神を忘れてしまうかもしれないのです

人生には色々な事が起こります
恵みとは何か?
一年の初めに、それを考えてみましょう
”置かれたところで神の働きを感じ、感謝する歩み”
これこそが恵まれた歩みです
そのような歩みに必要なのは
”神の助けにより今の自分がある”ことを忘れない事
常に神が共にいて助けてくださるとの実感を持っていなければ
神に喜ばれる者として変わっていくことはできないのです

イエスを信じる信仰は
律法(おきて)を守っていればいいという信仰ではありません
律法の行いに熱心な人ほど傲慢になり
自分を誇るようになりがちです
これに対して本当の信仰は
起きてきた事柄を受け入れるところから始まります
その時にいかに”神と共にある”との思いを持って歩み出せるか
その繰り返しの日々の中で
わたしたちの信仰は成長するのです
それは
目に見えて一気に進むものではないかもしれませんが
少しずつ着実に変わっていけるように
今年一年も自分の歩みを省みながら
神と共に歩んでいきましょう



<目次