今週のみことば
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11月18日

「わたしたちの神よ
今こそわたしたちはあなたに感謝し
輝かしい御名を賛美します
このような寄進ができるとしても
わたしなど果たして何者でしょう
わたしの民など何者でしょう
わたしたちは
御手から受け取って差し出したにすぎません
わたしたちは
わたしたちの先祖が皆そうであったように
あなたの御前では寄留民にすぎず
移住者にすぎません
この地上におけるわたしたちの人生は
影のようなもので
希望はありません
わたしたちの神、主よ
わたしたちがあなたの聖なる御名のために
神殿を築こうとして準備したこの大量のものは
すべて御手によるもの
すべてはあなたのものです
わたしの神よ
わたしはあなたが人の心を調べ
正しいものを喜ばれることを知っています
わたしは正しい心をもって
このすべてのものを寄進いたしました
また今
ここにいるあなたの民が寄進するのを
わたしは喜びながら見ました」
(歴代誌上29章13-17節)

前回のみことばでは
神殿建築に当たって
ダビデが材料を集めた時
感謝の思いで心が燃え
ダビデ所有の多額の財産も
そこに投じたことを記しました
そして
ダビデと同じく
神に感謝の思いをもつ者に対して
寄進を呼びかけたところ
多くのものが捧げられたのでした

今回のみことばは
その様子を見たダビデが
感謝の祈りをささげているところです

神殿建築のために
ダビデもイスラエルの民も
こうして多くの財産を捧げましたが
それはみな真心からのものであること
そして
それらの財産も
元は神から与えられたものであって
差し出しからといって
なにも立派なことをしたわけではないのだと
ダビデは神の前に頭を低くして祈りました

この10節から始まるダビデの祈りは
神の栄光をたたえる内容で終始し
わたしが捧げたとか
わたしの民が捧げたとか
そういう「人の行い」を誉めることはなく
ただ「神の恵み」によって
このようなことができたのだと
心から神に感謝していることが分かります

子どもの時に
王として選ばれたダビデの生涯には
多くの戦いがあり困難がありました
ダビデとて辛い時には心弱ることもあり
神の救いについて
確信を持てないこともあったでしょう
エリヤ等いにしえの預言者も同様に
人間は誰も不安を持たずに生きることはできません
それでもなお
窮地に立たされた時には神に祈る
それしかない
それがすべての人には
神は必ず救いの手を差し伸べてくださるのでした

そのような数々の助けを体験しているからこそ
ダビデもイスラエルの民も
神殿建築の折には
感謝に感じて財産を寄進しました
だから
そうしたことを誰も誇らない
誇れないのです

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し
見えない事実を確認することです
昔の人たちは
この信仰のゆえに神に認められました」
(ヘブル人への手紙11章1節)


わたしたちの人生には様々な試練があって
そのたびに
絶望的な気持ちになることもありますが
常に神の助けがあることを信じて
信仰をもって踏み出していきたいものです

その時にはまた新しい神の助けを経験し
こうして助けられる体験が増えることで
いよいよ感謝に感じて
心が神に向いて
神に喜ばれる道を歩んでいくなら
どんなところに置かれても
必ず平安と喜びを与えられていくでしょう

「エッサイの子ダビデはイスラエルの王となった
彼がイスラエルの王であった期間は四十年に及んだ
ヘブロンで七年
エルサレムで三十三年間王位にあった
彼は高齢に達し
富と栄光に恵まれた人生に満足して死に
彼に代わって息子のソロモンが王となった」

(歴代誌上29章26-28節)

ダビデは
自分の人生が
「神によって恵まれた」ものであることに感謝し
満足して生涯を終えました
決してお金があるから満足だというのではなく
神に希望を置くことの素晴らしさを知り
実体験によって
神の救いの確信を得たのです

クリスチャンはよく
「恵まれた」という言葉を使いますが
これは自分がお金持ちになるとか
世間的に良い立場になることをいうのではなく
神によって助けられることに対して
感謝に感じて使う言葉です

自分が何か特別な立場になったとしても
そこには自慢するという気持ちはなく
すべてのことは神の采配の内になされているのだと
ただ神を賛美するのみであるべきことは
今回のダビデの祈りからもわかる通りです

この世に生きている限り問題は尽きませんが
そのたびに神の助けを信じて進み
本当の意味での「恵まれた」人生を
送ることができますように


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