今週のみことば


1月14日


「我らの民のため、我らの神の町々のため、雄々しく戦おう
主が良いと思われることを行ってくださるように」
(サムエル記下10章12節)

アンモン人の王が死に、息子ハヌンが代わって王となった時
ダビデはハヌンに対して弔問の使者を送りました
それはハヌンの父ナハシュが忠実であったことから
ナハシュに敬意を表してそうしたのですが
アンモン人の高官たちはその好意をまっすぐ受け取らす
「この町を探りうかがい、倒そうとして家臣を送りこんだに違いない」と
ハヌンにダビデのことを悪く吹き込んだのです
そのためハヌンはダビデの家臣を捕えてひげを半分そり落とし
衣服も下半分を切り取り、追い返してしまいます

自分たちの思い過ごしでダビデの憎しみをかったことを悟ったアンモン人は
今度はアラム人に呼びかけて歩兵二万を傭兵として要請し
他地域からも多くの兵士を雇い入れました
これを聞いたダビデは
ヨアブを大将として勇士たちの全軍を送りだします

敵軍が二手に分かれているのを見たヨアブは
イスラエルの全精鋭から選んだ兵士を指揮してアラム軍に向かい
残りの兵士は兄弟アビシャイの指揮のもと、アンモン軍に向かわせます
その時ヨアブはアビシャイに
もし片方が劣勢になるようであればお互い助け合う事と
自分たちは、自分たちの私利私欲ではなく
イスラエルの民のために、我らの神の町々のために戦おうと宣言します
そして結果については
「主が良いと思われることを行ってくださるように」と
すべてを神にゆだねていきました

こうしてヨアブ軍が戦いに出ていくと
アラム軍は逃げてしまいました
するとそれを見ていたアンモン軍もアビシャイの前から逃げ出したので
ヨアブはエルサレムに帰っていきます
すると今度はアラムが団結し
アラム人の王ハダドエゼルはアラムの全軍をイスラエルに向かわせます
これに対してダビデはイスラエルの全軍でもって迎え撃ったところ
アラム軍は敗北し
これ以降アラム人はイスラエルに隷属することとなりました
そしてもう二度とアンモン人を支援することはなかったのです

元々このイスラエル人とアラム人の戦いは
アンモン人の王の間違った行動から発展したものですが
ダビデの心を疑うアンモンの家臣たちのように
現実には人はなかなか信じられないものでもあります
それでもダビデの心には
9章におけるヨナタンの息子への配慮のように
常に”受けた恩を忘れない”という一貫した思いがあって
アンモンの王への弔意も同じ心からのものでした
しかし
そのような良い思いさえも、通じない人には通じないどころか
かえって悪者にされてしまうのは残念なことですが
これは今の世の中にもよくあることでしょう
良い心でしたことなのに、とんでもない目にあわされるばかりか
相手(アンモン人)は戦いまで仕掛けてくるわけですが
その戦いに対抗するにあたって
ダビデの軍はすべてを神にゆだねていきます

一方、アンモン人は人を頼りとしていますから
アラム人に歩兵二万を傭兵として要請したとあるように
「傭兵」すなわちお金で雇われた兵士をたくさん集めました
ところが、お金で集められた人は忠義の心などありませんので
自分が危いとなればさっさと逃げ出してしまいます
そのためアラム軍もアンモン軍も
イスラエルに敗北してしまったのでした

これに対し
イスラエルの兵士はお金で雇われたのではなく
神を信じ、神のために自分を捨てて戦います
それまでの多くの戦いにおいても
兵士の数が多かろうが少なかろうが
彼らはその信仰によって勝利を得てきました
彼らは自分の都合よりも神の言葉を優先することを教えられ
その言葉に従ってきた結果
イスラエルの領土はここでまた大きく広がっていったのです

さて
わたしたちはこのイスラエルの神と同じ神を信仰している者であっても
人間の心は弱いので
自分の都合の良いことが起こることを期待して信仰する場合がよくあります
しかし
”何かがもらえるからついていこう”
そんな「傭兵」のような信仰には神に対する心がありません
信仰歴がどんなに長かろうと
自分の都合や願いを第一にしていくかぎり
自分の思いを捨てることはできず
その結果としていつも同じ失敗を繰り返してしまう人は
かなりあるように思われます
何度も同じ間違いを繰り返さないようにためには
自分の思いを捨てて信仰に立つこと
そのために必要なのは「神を畏れる」という心です

長い間教会に通っている人は
当然自分は神を畏れていると思っているかもしれませんが
「おきて」として教会に行くことに慣れているだけで
「神が開かれた道に進む」ということについては
それらが
行きたくない所、やりたくない事、自分の好みではない事
面子に関わる事、言いづらい事、できないと思う事・・等
そういった自分にとって不都合な道である場合には
文句や言い訳を言って歩み出そうとしない(逃げ出す)のはよくあることです

このように
自分の歩むべき道について
神を信頼して従っていけるかどうかは信仰歴には関係ありません
すべてはその人の心にかかっています

「主が良いと思われることを行ってくださるように」

この言葉は
神を信頼しているからこそ出てくるもの
そして
神を信頼して進んでいくことの素晴らしさを
クリスチャンはみな体験として持っているはずですが
その恵みをずっと感謝し続けているかどうかが
あらゆる場面で繰り返し試されていくのです

自分の思いを捨てる時には心の葛藤があります
神の側からみれば人間は弱く
都合が悪くなればそっぽを向いてしまうようなどうしようもない存在ですが
それでも価値のある者として救ってくださったことに感謝し
それぞれが置かれたところで良い実を結んで行くことができますように



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