今週のみことば
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12月16日
「わが神よ
この所でささげる祈りに目を向け
耳を傾けてください
神なる主よ、立ち上がって
あなたの安息所にお入りください
あなた御自身も御力を示す神の箱も
神なる主よ
あなたに仕える祭司らは救いを衣としてまとい
あなたの慈しみに生きる人々は
幸福に浸って喜び祝うでしょう
神なる主よ
あなたが油注がれた人を見捨てず
あなたの僕ダビデに示された
慈しみを覚えていてください」
(歴代誌下6章40-42節)
先週に引き続き
神殿建築が完了した際の
ソロモンの祈りの言葉です
ここはその最後の部分ですが
ソロモンは神に対して
ひたすら「慈しみ」を求めました
どんな時も決して見捨てず
必ず助けて下さる主なる神
ソロモンにとって
その「慈しみ」こそが頼りであり
父ダビデの時代と同じように
自分が王として国を治めている間にも
常に神の助けがあるよう祈ったのです
上記みことばの最後の文章は
文語訳では
「汝の僕(しもべ)ダビデの徳行を記念(おもひ)たまへ」
と訳されています
ダビデという人は
王様になっても、自分の国が大きくなっても
いつの時代も神に対する思いは変わらず
女性問題で失敗することはあっても
傲慢になって神を忘れることがない人でした
人は最初は謙遜(けんそん)でも
力をつけると
自らを誇るようになる(=神を忘れる)ことが多く
そこが人間の弱さなのですが
ダビデは神への思いが終生変わらなかった
それが”ダビデの徳行”なのでしょう
そして
ダビデは決して自分が偉くならないことで
どんな時も神の慈しみを受け続けました
そんな父親と同じように自分もこれから歩むので
どうか見捨てないで
常に慈しみを与えてくださいと
ソロモンは祈ったのでした
また冒頭の
「わが神よ
この所でささげる祈りに目を向け耳を傾けてください」の
「この所」とは
ここでは神殿を指しており
今では教会を表しているわけですが
これは単に建物を指しているわけではありません
祈る場所が教会でなくても
聖霊を受けた人は
自らが神の宮とされているのですから
その祈りに神は慈しみをもって答えてくださいます
以前、入院している人は教会に行けないので
礼拝に出られない=神の恵みがないのではないかと
質問を受けたことがありますが
今は「律法(おきて)の時代」ではなく
「恵みの時代」ですから
それぞれが置かれたところで祈る祈りに
その心(信仰)を見る神は必ず答えてくださるのです
そもそも教会という建物がどのようなものであっても
そこに「神の働き」がなければ
ただの建物にすぎません
重要なのはそこに「神の知恵」があり
病気の癒し等の奇跡や
不思議な助けといった「神の働き」があること
それは
神という不動の岩の上に建てられた教会だからこそ起こることで
決して自分を誇らない
ただ神だけを頼りとし、誇りとする信仰にこそ
神の慈しみが与えられるのです
人は信仰を単に形でとらえがちですが
神を信じ、従おうとする人は
自らが偉くなることはないので
その人の姿や行いに
心(信仰)が自然に反映されます
そして
そこに神の慈しみの結果であるさまざまな奇跡が起こり
神が本当に生きて働く方であることを証明する証人として
ひとりひとりが用いられる
そんな幸いな信仰生活を
送っていくことができますように
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