今週のみことば


2月4日


「ダビデの子アブサロムにタマルという美しい妹がいた
ダビデの子アムノンはタマルを愛していた
しかしタマルは処女で、手出しをすることは思いもよらなかったので
妹タマルへの思いにアムノンは病気になりそうであった」
(サムエル記下13章1-2節)


ダビデには多くの妻があり、子どももたくさんいました
最初の妻ミカルはサウルの娘でしたが子どもがおらず
2番目の妻との間に初めてできた長男がアムノンでした
一方アブサロムとタマルは4番目の妻の子どもで
アブサロムはダビデの息子として三男にあたります

ダビデの長男アムノンは、異母妹のタマルを愛していました
それは彼女が非常に美しかったからです
そこでタマルを手に入れるためにアムノンは病気を装い
彼女を自分のところへお菓子を作りに来させるよう父ダビデに頼みました
ダビデはそれを承諾し、タマルを兄アムノンのところに行かせると
アムノンはタマルが作ったお菓子を食べずタマルに襲いかかります
タマルは父ダビデに自分との結婚の許可を取るようにとアムノンに言いますが
アムノンは彼女の言う事を聞かず、力ずくで辱めるのです
こうして自分の欲望を満足させたアムノンは
今度は彼女を憎むようになり、部屋から追い出してしまいます
絶望したタマルにアブサロムは『今は何も言うな』と言って家に置きました
ダビデは事の一部始終を聞いて怒ったとありますが
アムノンを処罰したとの記述はありません
そしてアブサロムはアムノンを深く憎みました

それから2年後
アブサロムの羊の毛を刈るお祭りに
ダビデ王と王子たち全員が招かれました
その時ダビデは行かず、ただ祝福だけを与え
長男アムノン以下王子全員をアブサロムのところに行かせます
これはアブサロムが重ねて願ったからです
すると、祭りの酒に酔っているアムノンを
アブサロムに命じられた従者たちが殺します
アブサロムは2年前の妹タマルに起きた事件について
こうしてアムノンに復讐したのでした

長男アムノンを死を知ったダビデは多いに嘆き
アブサロムはゲシュル(母親の里)に逃げて3年間そこにいましたが
その後、許されてダビデのもとに帰ることになります

さて
ダビデがウリヤの妻を奪い、ウリヤを殺すという罪を犯した時
神は預言者ナタンを通してダビデの過ちを指摘し
その時預言されたとおりに
ウリヤの妻がダビデに産んだ子どもは死にました
一方
今回のアムノンの過ちについて、神の言葉はありません
このような悪事に対してダビデの裁きもなく
そのまま何事もなかったかのように2年の月日が過ぎていきます
そして2年後には
アムノンを憎んでいたアブサロムが自分の「思い」をとげるわけですが
この13章には神が登場せず
そこに登場する人物も誰も神に聞かず
それぞれが自分の「思い」に従って行動しています
言いかえれば
みんな好き勝手に行動しているわけです

アムノンは自分の欲望を満足させるためにタマルの一生を台無しにしました
タマルはこの事件の後アブサロムの家に身を寄せ
生涯結婚することなくひっそりと過ごします
そしてアムノンは2年後に殺され
アムノンを殺したアブサロムも
一度はダビデから許されて帰りますが
その後ダビデの地位をねらって、最後に殺されることになります

こうして、みな自分の思い(欲望)に従って行動し
自分の人生も相手の人生も台無しにして
誰も幸せになれない物語が続いていく原点には
ダビデの罪がありました
ウリヤを殺したダビデの行動は
”主をはなはだしく軽んじた”(12章14節)として裁かれ
その後ダビデの家に戦いが絶えないことが預言されています
そして
ダビデの息子たちもまた神に聞かず
自分の欲望を抑えることができないまま
「神の目に悪とされること=やってはいけないこと」をやっていまうのです

ダビデは神の言葉に忠実で、ずっと従ってきた人でした
ところが、そんな彼にも自分で抑えきれない欲望に負けてしまいます
それは彼が王として君臨してからのことで
多くの妻を持ち、豊かな生活をしているうちに
その心も変わっていったのでしょう
また
ダビデが息子たちに対してどのような教育をしてきたかについても
アムノンの行動を見ると疑問に思います
アムノンは長男で本来王位継承権も一番のはずですから
それはそれは大切にされてきたことでしょう
しかし恵まれた立場である彼が
タマルに対して自分勝手な行動をするのを自制できないのは
甘やかされた人ゆえかもしれません
こういう人はわがままで
その行動には愛がない、つまり神がいないのです

神を中心とせず、自分の欲望を中心にすると
人生は破滅していきます
13章には、人間がどういうものであるか
その弱さがはっきり表れている箇所ですが
もし本当に神を恐れている人ならば
どんな思いが心のうちにおこってきたとしても
自分が間違った行動をすることで
それが
”主をはなはだしく軽んじた”ことになると思えば
(文語訳では”エホバの敵に大いなるののしる機会を与える”ことになる)
自ずと自制しようとするのではないでしょうか
わたしたちがもし好き勝手な恥知らずな行動をすれば
神さまが恥をかくわけです
それがどうでもいいことだと思うなら
その行動には愛がなく
自分の欲望の先には破滅があるのみです

「そして、欲望ははらんで罪を生み
罪が熟して死を生みます」
(ヤコブの手紙1章15節)


とはいえ、人間は弱くついつい失敗もしてしまいます
だからこそ人間には神の救いが与えられ
クリスチャンは神の愛によって救われているわけですが
自分の中の弱さとの戦いは続いていくので
神を信じ、助けを求めつつ
間違いは反省し改めていかなくてはなりません
もし自分勝手な歩みをやめないで欲望に従って生きるなら
その人生は破滅に向かっていきます

誰でも自分の人生を好き勝手に歩むのも自由だとしても
自己中心の歩みをする人はたいてい孤独で
人を愛することもなく、愛されることもなく
愛とは何かを理解することもありません
アムノンがタマルを愛したのは愛からではなく
美しい彼女を手に入れたいという欲望からです
もし彼に愛があったなら
タマルの人生を大切に思いやる行動もできたでしょう

わたしたちは自分の思い通りにいかない人生を嘆くことがよくあります
しかし
自分の思い通りになる事がすべて正しいわけではありません
わたしたちにとって本当に幸いなことは
神の目に正しい道を歩むこと
そのためには自分の中にある欲望について考えてみる必要があります
そして
「神」すなわち「愛」を中心とした考え方に変わっていくように
行動も変えていかなくてはならないのです

自分の人生が面白くないからと人に八つ当たりをすれば
ますます面白くなくなっていくでしょう
面白くない時にも面白く生きることを考えることができる
そのような希望を持つことができるのも神の恵みです
たとえ自分の意にそわない人生だとしても
神の恵みのうちに生かされていることを知り
恵みとは何か?を理解できる人に成長していきましょう



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