今週のみことば


2月11日


「イスラエルの中でアブサロムほど、その美しさをたたえられた男はなかった
足の裏から頭のてっぺんまで、非のうちどころがなかった」
(サムエル記下14章25節)

「その後、アブサロムは戦車と馬
ならびに50人の護衛兵を自分のために整えた
アブサロムは朝早く起き、城門への道の傍らに立った
争いがあり、王に裁定を求めに来る者をだれかれなく呼び止めて
その出身地を尋ね
『僕はイスラエルの諸部族のひとつに属しています』と答えると
アブサロムはその人に向かってこう言うことにしていた
『いいか。お前の訴えは正しい。弁護できる
だがあの王の下では聞いてくれる者はいない』
アブサロムはこうも言った
『わたしがこの地の裁き人であれば
争い事や申し立てのある者を皆、正当に裁いてやれるのに』
また、彼に近づいて礼をする者があれば
手を差し伸べて彼を抱き、口づけした
アブサロムは、王に裁定を求めてやって来るイスラエル人すべてにこのようにふるまい
イスラエルの人々の心を盗み取った」

(サムエル記下15章1-6節)

ダビデの三男アブサロムは
妹の復讐のために長男アムノンを殺した後、逃亡していましたが
2年後にダビデに許され、エルサレムに帰ってきました
彼は大変美しい男であり
その外見の良さと、人当たりの良さでイスラエル人の心をつかんでいきます
そして”アブサロムがヘブロンで王になった”とのウソの噂を流させ
ダビデの顧問を味方に引き入れるなどして
アブサロムの元に多くの民を集めていきました

イスラエル人の心がアブサロムに移っているという知らせを聞いたダビデは
彼と戦わないで自ら王宮を去ることを決めます
『我々が急がなければ、アブサロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え
この都を剣にかけるだろう』(14節)

こうしてアブサロムに追われて都落ちしたダビデ一行は
その道すがら色んな人々に出会います
16章においては、まず
ヨナタンの息子メフィボシェトの従者ツィバが出てきて
ダビデ一行にロバや、たくさんの食べものを贈るのですが
彼には下心がありました
ツィバによれば、かつてダビデから助けられたメフィボシェトが
ダビデがエルサレムを去ったと聞いて
(メフィボシェトはサウル王の孫ですから)
これで王座は自分に帰されたと言っているというのです
それが本当ならダビデは裏切られたということですから
ダビデは
『それなら、メフィボシェトに属する物はすべてお前のものにしてよろしい』(4節)
と言ったので
ツィバは自分の思いどおりになったと喜びました

更にダビデ一行が道を進み、バフリムにさしかかると
サウル家の一族のシムイという男が
ダビデを呪いながら出てきました
彼はダビデとその一行に石を投げつけ、暴言を吐いたので
ダビデの部下はシムイを殺そうと言います
しかしダビデはこう言いました
『ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ
主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろう』(10節)
『わたしの身から出た子がわたしの命をねらっている
ましてこれはベニヤミン人だ
主の御命令で呪っているのだ
主がわたしの苦しみを御覧になり
今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない』(11-12節)


さて、王の息子が反乱をおこしたことで
ダビデ王は王宮を去るわけですが
彼の持っていた兵力が少ないからダビデは撤退したわけではありません
戦争によって都が破壊され、人命が失われていくことを
ダビデは避けようとしたのです
どんな敵に対しても常に勇敢に戦ってきたダビデにとって
それは人間的に考えれば屈辱的なことではありますが
彼の判断はいつも”神がどう思われるか”にありましたから
自分の思い(感情)で行動することはなかったのです

そのダビデの考え方をよく表わしているのが
シムイに対するこの言葉です
『主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろう』
ダビデは、誰が悪いではなく
すべてのことは神の御心のままに行われていると思っていました
すると
腹の立つようなことでも、仕方がないと受け止めることができ
そのまま受け流して行けたわけです

かつてダビデは
サムエル記上25章において
愚か者のナバルからののしられた時に激しく怒り
部下を引き連れてナバルを殺しに行く途中
ナバルの妻アビガイルに会い
彼女の説得を受け入れて怒りをしずめたことがありました
その時、女性の説得を受け入れることそのものも
彼の器の大きさを示していましたが
今回のように、王宮を追われるという散々な目に会った上で
さらに追い打ちをかけるように色んな人が現れてくる時
全てを神に任せるという彼のとった冷静な行動から
彼が以前にもまして大きな器として成長していることがわかります

わたしたちの人生にも起こるのは思いがけないことばかりで
自分の理想とは程遠い状況かもしれません
それでも、それは惨めなことではなくて
神にあって”なれるものになる”と考える人に成長する
それが信仰者の生き方です
もしそのように歩まないで、いつも自分の理想(欲)を追いかけていたら
人の理想は常にレベルが上がっていき
結局は自ら惨めな人になってしまうでしょう

神の業には良い事も悪い事もあって
それを上手に受け止めていける人は幸いです
自分の思い(感情)で突っ走らないことは
自分を磨いていくことにつながり
そのように成長することを神は喜んでくださいます
わたしたちもそういう器の大きい人に憧れ
”そのようになりたい”と思うのではないでしょうか

一方
ダビデが困っている時に
親切を装って自分の地位を築こうとする者も現れたように
他人の不幸を利用して、上手く立ちふるまおうとする嫌な人間もいます
こんな話を聞けば
”そのようになりたくない”と思うでしょう

実際にわたしたちの周りには色んな人がいて
”あんな人になりたい”と思う人も
”あんな人になりたくない”と思う人も
色々な見本が置かれているわけですが
まずは
なりたい見本よりも、なりたくない見本を自分に当てはめて
自分を省みていくのは大切なことです

例えば
自分の心の貧しさから人を非難したり、ウソの噂を流す人もありますから
まずはそういうウソをうのみにしない、のらない、相手にしない
という姿勢は重要です
その上で、自分はそういう人にならないように反面教師にする
それは神を信じている(恐れている)なら当然の考え方であり
信じているからこそ、そのように行動できるようにもなるのです

わたしたちの人生に起こることは
すべて神の許しのうちになっています
呪いの言葉をあびせられたダビデが相手を罰しなかったことで
『主がわたしの苦しみを御覧になり
今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない』

との希望を抱いていたように
わたしたちも自分の感情に走らない冷静な判断をして
その先にある幸いに希望をおいて歩んでいきましょう



<目次