今週のみことば


4月1日


「三十人の頭の中の三人が
刈り入れ時にアドラムの洞窟にいるダビデを訪ねて来たことがあった
ダビデは要害におり、ペリシテ人の前哨部隊はベツレヘムにいた
ダビデは『ベツレヘムの城門の傍らにある
あの井戸の水を飲ませてくれる者があればよいのに』と切望した
三人の勇士はペリシテの陣を突破し
ベツレヘムの城門の傍らにある井戸から水をくみ、ダビデのもとに持ち帰った
ダビデはこの水を飲むことを好まず、注いで主にささげ、こう言った
『主よ、わたしはこのようなことを決してすべきではありません
これは命をかけて行った者たちの血そのものです』
ダビデはその水を飲もうとしなかった」
(サムエル記下23章13-17節)


ダビデ王には彼に仕える「三十人の勇士」と呼ばれる兵士がおり
その中でもイシュバアル、エルアザル、シャンマは三勇士として
特に勇敢で多くの功績を上げた人たちです
彼らはイスラエル軍が劣勢になって味方が逃げ出しても
その場に残って戦い続けたので
神はその戦いに勝利を与えられました
そして
ダビデがペリシテ人との戦いのさなか
敵軍のいる地にある井戸の水を飲みたいと願った時にも
すぐに出て行ったのはこの三人だったのです

この時ダビデがいた要害からベツレヘムの井戸までは
実は40キロもあったようですが
敵陣の中を、それもこんな遠くまで
ダビデのためにと水を汲みに行った3人の行動は
ダビデの心を強く打ちました
ダビデは彼らが自分のために命をかけてくれたことに感謝し
この水を自分は飲まず神にささげます

ここでポイントになるのは
三勇士が槍や剣で戦うことに優れているという以前に
彼らがダビデを尊敬して(愛して)いるがゆえに
自分の命さえも惜しまない行動ができたという点です
ダビデは神から選ばれた王であっても
イスラエルの国は彼がひとりで戦って勝利を得たわけではありません
彼にはこの三勇士のような勇敢な兵士たちがいて
更には、その周りに名もない兵士たちもいて
彼らがみんな命をかけて戦うことで国は成り立って行ったのです

全能の神の力をもってすれば
このような兵士たちがいなくてもイスラエルを勝利させることは簡単ですが
ここでは一人一人の力に応じた働きが求められており
その働きの原点としてダビデへの尊敬(愛)と
ダビデを支える神への信頼(信仰)が求められているわけです

三勇士たちは下心や野心から
井戸の水を汲みに行ったわけではありません
それは彼らのそれまでの命をかけた戦い方からわかります
そんな彼らの心(愛)があってこそ
神はイスラエルに勝利を与えたのでした

新約聖書におけるイエスの伝道生涯においても
有名な12弟子から、名もない女たちまで
多くの人々が伝道活動を助けた様子が記されています

「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら
町や村を巡って旅を続けられた
十二人も一緒だった
悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち
すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア
ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ
そのほか多くの婦人たちも一緒であった
彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」
(ルカによる福音書8章1-3節)


全能の神であるイエスご自身は
人に養ってもらう必要はありませんが
ここでも多くの人々の心(愛)が
伝道活動を支えています

このように、教会というところは
神を愛し、教会を愛する信者があってこそ成り立ち
表で目立つ人であれ、裏方の人であれ
一人一人の奉仕の心(愛)が神に喜ばれるのです

そのためには
自分のできることをやっていくこと
それが何かを考えることが大切です
誰かと比べるのでもなければ
自分が偉くなりたいとの下心からでもない
ただ自分に与えられている力(能力)をもって
一人一人がそれにふさわしい働きをする
それが”神にあって有能な人”です

一方で
”世にあって有能な人”は
しばしば自分を誇ります
自分のがんばりを誇りたい人は
「わたしがやった」ということをやたらと公言しますが
心からしたことを人は「わたしがやった」とは言わないものです
こういうところに人の心はあらわれ
神はそこを見ておられます

ダビデの三勇士は
ダビデを尊敬するだけでなく
彼を支える神を見ていました(信仰をもっていた)
だからこそ命をかけた勇敢な戦いもできたわけです

クリスチャンにとっての希望は
その人生の歩みを神が必ず守り、助け導いてくださることにあります
すでに多くの助けを得て生かされている感謝をもつことで
信仰はさらに強まり
信じているからこそ、人生の試練の中で懸命に戦い
更にはこの福音を伝えようともするのです

「だから、心に留めておきなさい
あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり
いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは
割礼のない者と呼ばれていました
また、そのころは、キリストとかかわりなく
イスラエルの民に属さず
約束を含む契約と関係なく
この世の中で希望を持たず
神を知らずに生きていました
しかしあなたがたは
以前は遠く離れていたが
今や、キリスト・イエスにおいて
キリストの血によって近い者となったのです」
(エペソ人への手紙2章11-13節)


神の愛によって救われたクリスチャンは
自らも神を愛することを学ぶ必要があります
ただ何か見返りを求めて信仰するのではなく
愛をもって行動する人として成長していくことができますように



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