今週のみことば


4月29日
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「王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った
そこには重要な聖なる高台があったからである
ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた
その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち
『何事でも願うがよい。あなたに与えよう』と言われた
ソロモンは答えた
『あなたの僕、わたしの父ダビデは
忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので
あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました
またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって
今日、その王座につく子を父に与えられました
わが神よ、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として
この僕をお立てになりました
しかし、わたしは取るに足らない若者で
どのようにふるまうべきかを知りません
僕はあなたのお選びになった民の中にいますが
その民は多く、数えることも調べることもできないほどです
どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように
この僕に聞き分ける心をお与えください
そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが誰にできましょう』
主はソロモンのこの願いをお喜びになった
神はこう言われた
『あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず
また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞きわける知恵を求めた
見よ、わたしはあなたの言葉に従って
今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える
あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない
わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える
生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない
もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って
わたしの道に歩むなら、あなたに長寿をも恵もう』」
(列王記上3章5-14節)


ダビデが亡くなり、ソロモン王の時代が始まりました
この頃にはまだイスラエルの神の神殿が建てられていなかったので
既存の「聖なる高台」でいけにえを捧げることが一般的でしたが
ソロモンもギブオンにある聖なる高台に行って
一千頭もの燔祭を捧げます

ここで神が夢枕に立たれたのは
ソロモンがたくさんの燔祭を捧げたからというわけではなく
彼の神に対する信頼(信仰心)を見られたからでした
そこでソロモンは神からの有難い申し出に対して
自分にとって一番必要なものを求めます
それは王として最も重要な、民を正しく裁く知恵

実際に、この夢は夢に終わらず
神はソロモンの望んだ知恵を与えられたので
早速彼は16節以降に記されているように
二人の遊女に対して正しい裁きをしてみせました

同じ頃に同じ家で二人の遊女が子どもを産んだが
片方の遊女が子どもに寄りかかって寝ていたため子どもが死んでしまったので
こっそりもう一人の遊女の子どもとすりかえたというのです
二人の女のうちどちらが生きている子どもの母親なのか?
その裁きの座で、ソロモンは驚くべきことを告げます
『生きている子を(剣で)二つに裂き
一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ』(25節)
驚いた本当の母親はすぐに言いました
『王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください』
一方でウソをついている母親は
『この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで
裂いて分けてください』(26節)と言ったのです
このやり取りを聞いてソロモンは
前者が正しい母親であることを判断しました

ソロモン王の裁きを聞いたイスラエル人は
”神の知恵が王のうちにある”と
みな王を畏れ敬うようになり
彼は神が約束されたように生涯にわたる祝福を得ていくこととなります

さて、もしわたしたちの夢枕に神が立ち
”何でも望むことを言いなさい、かなえてあげよう”と言われたら
何と答えるのでしょうか
普通は、今自分が必要としているものを求めるように思いますし
それを求めるのが悪いわけではありません
そして
本当に必要なものや助けは必ず与えてくださるのが
この愛の神の有難いところで
そういう助けによってわたしたちは
実際どんな所にあっても生かされていくのです

ただ、人間の性質としては
”自分に得になること”を求める傾向があり
自分の望みがかなうことで
かえって間違った道に歩む危険性があることを
わたしたちはよく知っておかなくてはならないでしょう

世の中に言うところの「損得勘定」は
自分にとって都合のいい見返りを求めるもので
そこにあるのは自分さえよければいいという自己中心の考えです
もしソロモンが
自分の損得勘定で動く人なら
裏金をもらって間違った裁きをすることにもなりかねません
しかし彼が求めたのは
裏金も下心も通用しない神の道でした

この神にある正しい知恵を求めたところに
ソロモンの誠実さが現れています
そして
誠実な人は
神の名が崇められるように動く人でもあり
神に喜ばれる人です

一方で
もしわたしたちが自分の正しさを主張するために
人を蹴落とすようなことをすれば
それは神に喜ばれないことですし
弁明をする際にも
ウソを言って人のせいにすれば
そのような不実な歩みは神に喜ばれません

このように神の目はけっしてごまかすことはできず
正しい人には正しい報いが
間違っている人には間違った報いが
時間はかかったとしても必ず成り
神が生きておられる方であることを知らせるのです

”あなたの僕、わたしの父ダビデは
忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので
あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました”


ダビデが神の豊かな恵みを受けたのは
彼が神に対して誠実な心をもっていたからです
ダビデの時代には戦いの中で神の知恵が示され
ソロモンの時代になると
増えて行ったイスラエルの民が生活する上での
正しい裁きが必要になりました
どの時代においても必要な神の知恵がそこにはあり
助けが必ず与えられ
神がどのような方であるかを
人々に分かるようにされたのです

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには
万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」
(ローマ人への手紙8章28節)


神を信じるわたしたちは
自分に必要なことを何でも神に求めることができます
しかし
その願いどおりの事が起こるとは限らず
思いとは反対の事が起こる場合もありますが
神のご計画は目先のことだけでなく
全てが幸いになるように先々まで見通されていますから
色々と理想はあるにせよ
すべては神のご計画にお任せして
各々自分の置かれたところで務めを全うしていきましょう

「もし神がわたしたちの味方であるならば
だれがわたしたちに敵対できますか」
(ローマ人への手紙8章31節)


人が正しいと思うことのすべてが正しいわけではなく
神の思いはすべて正しい
その正しい神がわたしたちの味方で居てくださるために
わたしたちの生き方も神に喜ばれるものでありますよう
心がけていきたいものです



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