今週のみことば
9月9日
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「アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた
主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである
この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた
アラム人がかつて部隊を編成して出動した時
彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て
ナアマンの妻の召し使いにしていた
少女は女主人に言った
『ご主人様がサマリヤの預言者のところにおいでになれば
その重い皮膚病を癒してもらえるでしょうに』
ナアマンが主君のもとに行き
『イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています』と伝えると
アラムの王は言った
『行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう』
こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル
着替えの服十着を携えて出かけた」
(列王記下5章1-5節)
イスラエルに出向いたナアマンは
その後、病気が癒されていくわけですが
そもそものきっかけは「少女の一言」でした
イスラエルから連れてきた少女の一言を
ナアマンの妻は聞き逃さず
それを主人に伝えたのでしょう
それを聞いたナアマンもまたすぐに王様に告げ
たちまちイスラエルに向かうことが決まりました
しかもアラム(スリヤ)の王がイスラエルの王に手紙を書き
たくさんの贈り物まで添えて送り出しているのです
ちなみに、この贈り物は
現在の価値に換算すると
銀十キカル(タラント)→約340キログラム→約2千4百万円
金六千シェケル(シケル)→約78キログラム→約3億九千万円
となるので
戦勝国のアラムから敗戦国イスラエルへの贈り物としては
考えられないほどの高額であることから
アラムの王がナアマンを癒してほしいと
イスラエルの王に対して真剣に頼んでいる様子が分かります
王がここまで一生懸命になるほど
ナアマンは大事な部下でした
そして
王もナアマンもその妻も
みんなイスラエルの神に望みを託したのです
ところが
アラムの王からの手紙を受け取ったイスラエルの王は
アラムが難癖をつけてきたと思い激怒しました
「彼はイスラエルの王に手紙を持って行った
そこにはこうしたためられていた
『今、この手紙をお届けするとともに
家臣ナアマンを送り、あなたに託します
彼の重い皮膚病を癒してくださいますように』
イスラエルの王はこの手紙を読むと
衣を裂いて言った
『わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか
この人は皮膚病の男を送りつけていやせという
よく考えて見よ
彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ』」(6-7節)
一人の少女が当然信じている神の力を
そして預言者の存在を
イスラエルの王は意識していなかったため
アラムの王が頼んできた内容が理解できず
勝手に違う解釈をしたわけです
神を知らない世の中の人(アラム人)が神を信じようとしているのに
神の選民であるイスラエル人の方には信仰心がなく
その結果
神中心ではない=自分本位な考え方になってしまいました
この世には神があり、教会があることを
世の中の人が知らなくても
救われたクリスチャンは本来それを知っているはずですが
いざという時に心に神がいない状態では
正しく物事を受けとめることもできません
一方
イスラエルから来た少女の言葉を重視したことから
ナアマンはイスラエルまで出向くということになり
更にはその後、病気は癒されるわけですから
少女の言葉をどのようにとらえるかで
事はここまで発展するのだということを教えられます
この「少女の言葉」を「聖霊」に置き換えてみると
「聖霊の導き」というものは身近な所にあっても
それを受けとめる側に信じる気持ちがなければ
どんな言葉もみな素通りしてしまうということになります
このように
色んな問題があるところにも
「聖霊の導き」は必ずあって
知恵となり力となって物事(解決策)を教えてくださるのに
そこに「人間の思い」が出てきて
つぶしてしまうこともよくあること
『聖霊の導きはどこにあるのでしょうか?』と
具体的にたずねられる事もあるのですが
明らかに自然な流れが出来ていて
仮にそれをお話ししたとしても
人は自分にとって都合のいい道にしか興味がないので
受け入れないことは非常に多いものなのです
「イエスは再び言われた
『わたしは世の光である
わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』」
(ヨハネによる福音書8章12節)
「自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど
うれしいことはありません」
(ヨハネ第三の手紙4節)
教会は救いを求めて来る人に
神の光の中を歩んで幸いになってほしいと願っています
そして
そういう人たちが
「真理に歩んでいる」
つまり、神を信じ、その導きを知ろうとして
なおかつ神の道に従って進もうとしていることを
とても嬉しく思います
なぜなら
教会はそういう人のために存在しており
神の導きに従って歩む人には
神が明らかに働いてくださる様子を
実際に見ることができるからです
ところが
残念なことに
そうではない方向へ行ってしまう人もあります
「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに
もともと神でない神々に奴隷として仕えていました
しかし、今は神を知っている
いや、むしろ神から知られているのに
なぜ、あの無力で頼りにならない
支配する諸霊の下に逆戻りし
もう一度あらためて奴隷として仕えようとしているのですか」
(ガラテヤ人への手紙4章8-9節)
人生の中で自分が支配されている言葉(思想)は
誰が語ったことなのでしょうか
神でしょうか
人でしょうか
それが神の言葉であれば
その道は幸いになります
しかし
自分も含めて人の思想に支配されているのであれば
救われる前の霊の奴隷に逆戻りしているということです
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう
艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」
(ローマ人への手紙8章35節)
この世に生きている限り
わたしたちには様々な試練があります
それでも、どんなことがあるにせよ
その試練のためにダメになってしまうことはありません
なぜなら
信じる者にはいつも神の助けがあるからです
「しかし、これらすべてのことにおいて
わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって
輝かしい勝利を収めています」(37節)
様々な問題を前にして、人はいつも悩みますが
「神にある決断」をすると
その先には必ず幸いな証があります
それが「輝かしい勝利」であり
これによって神に栄光が帰されることが
神の御旨なのです
人間は誰しも「神のしもべ」であって
神は人間の思うままに動かされる存在ではありません
もしみんなが自分は「神のしもべ」だと思っていれば
どこにも争い事はなくなるでしょう
イスラエルの王も
自分が神のしもべだと思っていたなら
アラム(スリヤ)の王に対して怒ることもなかったはずです
ただ彼は以前アラムに負けているので
「やられた」との一心から
「アラム憎し」という心に支配されていたのでしょう
人の心は常に揺れ動き、実に厄介なものですから
絶対に正しい基準として神を信じ
その道に従っていくために
「聞く耳を持つ者」となることができますように
<目次