今週のみことば
(スマートフォン用ページ)
*****************

11月3日

「神を畏れる生き方が
あなたの頼みではなかったのか
完全な道を歩むことが
あなたの希望ではなかったのか」
(ヨブ記4章6節)


すべてを失い
自暴自棄になっているヨブを見て
3人の友人の一人テマン人エリファズは
持論を述べ始めました

かつては信仰者の見本であったヨブも
自分の身に災難が降りかかると
こんなに弱ってしまっている
一体あなたの信仰は
どこに行ってしまったのか?!

どんなに立派な信仰を
持っているように見えても
人の心は弱いものです
そもそもヨブの信仰とは
神の律法(おきて)を守ることにあり
それについては非常に熱心で
自分の子どもたちの燔祭まで
代わって捧げていたほどでした

しかし
律法の行いを守ることに熱心な信仰は
「これさえやっておけば大丈夫」というように
単に儀式的なことが中心になり
それは
心から神を崇める信仰とは異なります

そういう意味で
ヨブの信仰とはあくまでも律法の信仰であり
本当の意味での信仰が
はっきりわかってはいなかったのでしょう
そのため
災難が降りかかってきた当初は
『わたしたちは
神から幸福をいただいたのだから
不幸もいただこうではないか』と
立派なことを言ったものの
本音の部分はコントロールできず
その次には
『なぜわたしは
母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか』と
自分を呪う言葉を発するのでした

そもそも
律法を完全の守ろうと努力してきたのは
災いにあわないためであり
こうして神の前に
罪を犯さないように歩んできたヨブが
こんな悲惨な状態になるのは
何とも納得のできない話なのです

このように
人は不安になると
神に寄りすがることもできなくなり
律法を守るだけの信仰は
本物の信仰につながらないことが
ヨブの様子を見ると分かります

神を信じて生きていても
わたしたちには
日常的に不安と恐れが降りかかり
大丈夫だと自分に言い聞かせても
なかなか
平安が得られるわけではありません

それでも
どんな絶望的な時も
聖書を見て、そこに希望を置いて
何とか立ち直って行こうとする生き方こそ
”神を畏れる生き方”であり
これはひとりひとりが
神を求めていくしかないのです

先週も登場しましたが
ルカによる福音書19章のザアカイは
最初から信仰心をもって
イエスを見ようとしたわけではないようです
ところが
わざわざ木に登ってまで
イエスを見ようとしたことで
イエスに見いだされ
その強欲な心は清く変えられていきました

このように
神を見ようとする思いが
その人を変えるチャンスとなり
間違った生き方の中から救い出され
神から祝福される者として
新たに立ち上がっていけるようになるのです

さて
絶望しているヨブに対し
正論を述べて説教するエリファズですが
続いて展開する持論は
神を無視した自分なりの考えになっています

「考えてみなさい
罪のない人が滅ぼされ
正しい人が絶たれたことがあるかどうか
わたしの見てきたところでは
災いを耕し、労苦を蒔く者が
災いを労苦を収穫することになっている
彼らは神の息によって滅び
怒りの息吹によって消えうせる」
(7-9節)


エリファズの持論によれば
ヨブが災いに会うのは
神に対して罪を犯したからだ
と言うわけです
確かに一般的には
悪いことをすればそれが自分にかえってきて
自ら蒔いた災いの種を刈り取ることになるのも
自業自得というものでしょう
しかし
ヨブの場合はそれには当てはまりません
何しろ彼は、神から
『地上に彼ほどの者はいまい
無垢な正しい人で、神を畏れ
悪を避けて生きている』
と絶賛された人物です
だからこそヨブは
一体なぜ自分がこんな目にあうのか
理解できないのでした

エリファズの
”わたしの見てきたところでは”という話は
あくまでも彼個人の考え方で
これが神の考えではないにもかかわらず
彼は堂々とヨブにお説教をしている
このように
神はいつも正しい目を持って
わたしたちを見ておられるのに
人間が勝手に自分の意見で人を混乱させ
あるいは自分が自分を混乱させて
誰もが「わたしがわたしが」と
自分の考え重視になっているところには
いつまでも問題の解決はありません

このあと
神の思いが分からないまま
ヨブと3人の友人の議論は
つづいていきます


<目次