今週のみことば


11月10日
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「わたしなら、神に訴え
神にわたしの問題を任せるだろう」
(ヨブ記5章8節)

傷心のヨブに対して
エリファズの説教が続きます
彼の語る言葉は
信仰者としてあるべき姿の見本のようですが
反対に、信仰のない人(神が分からない人)には
慰めになるものではありません
神がどういう方であるかわからないのに
どうなるか見えない先の事を
すべては神の手の内にあるとどうして思えるでしょうか

7節には
「人間は生まれれば必ず苦しむ」
と記されていますが
ヨブのみならず
人が様々な問題で苦しむことが
定められているのはなぜかといえば
アダムとエバの過ちによって(創世記3章)
人間に「罪」が入ってきたためです
そして
その罪から逃れるために
人間には「救い」が必要となったのでした
アダムとエバがエデンの園から追い出される時には
彼らには皮衣が与えられており
罪を取り除くために動物の血を流す「燔祭(はんさい)」が
すでにここで教えられていたようです

ヨブは「律法の信仰」に熱心な人でしたから
罪の許しの「燔祭」は定期的に行っていたわけですが
この儀式を重んじる信仰は
ヨブが本当の意味で”神を知る”ことにはつながりませんでした
そのため彼は神に対して疑問を投げかけ
最後の42章においてようやく”神を見る”ことになるのです

「あなたのことを、耳にしてはおりました
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(42章5節)


最初のみことばのように
「神にわたしの問題を任せる」と言っても
”神を見る”という経験がない人には
それはとても難しいこと
なぜなら
そこには人生の土台となるもの(=神)が見えておらず
ただ「幸せ」とか「恵み」を求め
心が神以外のものを見てさまよっているからです

自分は救われている=クリスチャンだと言っても
人は誰も自分の人生がどうなっていくのかを知りません
それでも
自分の祝福や恵みがどこから来るのかを知り
どんな時も助けられて今の自分があるのだと思い出すなら
神の働きを見ることができるでしょう

クリスチャンはみな
”神の導きに従うことが幸いへの近道である”と教えられますが
それでも
人の歩みは
しっかりと自分の土台(神)を見て歩む人と
真の神を見つけられずに迷う人に分かれます

”神の導きに従う”とは
すべてのことは神のご計画のうちになされている・・・と
開かれた道をそのまま受け入れること
しかし
この時点のヨブは
まだ到底自分の置かれた状況を
受け入れることはできませんでした



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