今週のみことば
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11月17日
「間違っているなら分からせてくれ
教えてくれれば口を閉ざそう
率直な話のどこが困難なのか
あなたたちの議論は
何のための議論なのか
言葉数が議論になると思うのか
絶望した者の言うことを
風にすぎないと思うのか」
(ヨブ記6章24-26節)
テマン人エリファズから
「考えて見なさい
罪のない人が滅ぼされ
正しい人が絶たれたことがあるかどうか」
(4章7節)
と責められたヨブは
身に覚えのない罪によって
裁かれることを嘆き
自分の潔白を訴えます
そして
自分が間違っているというのなら
一体どこが間違っているのか
教えてほしいと
ただその事を
友人に問うているわけですが
友人は
ヨブが何か罪を犯したに違いないと
決めつけているので
その議論は全くかみ合いません
更に8章からは
シュア人ビルダドが登場し
絶望しているヨブを責めるのです
「いつまでそんなことを言っているのか
あなたの口の言葉は激しい風のようだ
神が裁きを曲げられるだろうか
全能者が正義を曲げられるだろうか
あなたの子らが神に対して罪を犯したからこそ
彼らをその罪の手にゆだねられたのだ」
(8章2-4節)
ここでビルダドは
ヨブの子どもたちが殺されたのは
彼らが神に対して
罪を犯したからだと告げています
ヨブ記を1章から読んできた人なら
この災いはすべて
神とサタンの会話から出た事だとわかるでしょう
しかし
そんなことは
ヨブにも友人たちにも知らされていません
その結果
彼らはそれぞれ
自分の持っている『神についての考え方』で語り
神の律法を守ってきたヨブに
それでも何か落ち度があったはずと
友人たちは責め続けるのでした
こうしてみると
わたしたちは誰も神のご計画を知らず
いつどのようなことが起こるかも
知らされないまま
生かされていることが分かります
人生の中で何が起きたといっても
それを誰かのせいにすることはできず
災いの意味を考えてみても
答えはありません
それでもそこに原因を見出そうとして
友人たちはヨブを責めている
しかし
ヨブ記の1章と2章を読む限り
神がヨブのことを信用しているのは明らかです
そして
自分の身に起きた過酷な災いを嘆き
「もうたくさんだ
いつまでも生きていたくない」
(7章16節)
「なぜわたしの罪をゆるさず
罪を取り除いてくださらないのですか」
(21節)
などと、神に対して必死に訴えるヨブも
神を呪うようなことは言わない
ところが
そんなヨブにビルダドは言います
「神を無視する者の望みは消えうせ
頼みの綱は断ち切られる」
(8章13節)
この言葉だけ聞けば
信仰者に向けた戒めの言葉ととれますが
ヨブにとっては
それを自分に向けられるのは
あまりにも理不尽というものでしょう
ヨブはこの時点で
なお神を信じています
でも
神がどういう方であるか
すべてを知っているわけではない
彼にとってこの先一番大切なことは
本当の意味で「神を知る」ことですが
それにはまだ時間がかかります
わたしたちの人生においても
ヨブほどの苦しみが
与えられることはないにしても
各々には色んな試練があって
例えば病気を経験することで
自分の弱さや限界を知り
それが「神を知る」ことに
つながる場合があります
災いがあれば、そこに救いもあり
すべてのことは
神の采配の内にあると知る時
わたしたちは神と共に歩むことの幸いも
教えられるでしょう
そのような信仰の成長があることを
神は喜んでくださるのです
「自分の子どもたちが真理に歩んでいると聞くほど
うれしいことはありません」
(ヨハネの手紙 三 4節)
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