今週のみことば


9月8日
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「建築作業に取りかかった者たちが神殿の基礎を据えると
祭服を身に着け、ラッパを持った祭司と
シンバルを持ったアサフの子らであるレビ人が立って
イスラエルの王ダビデの定めに従って主を賛美した
彼らも『主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに』
と唱和して、主を賛美し、感謝した
主の神殿は基礎が据えられたので
民も皆、主を賛美し大きな叫び声をあげた
昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは
この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き
また多くの者が喜びの叫び声をあげた
人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった
民の叫び声は非常に大きく、遠くまで届いたからである」

(エズラ記3章10-13節)

バビロンへ連れてこられていたイスラエルの民は
ペルシャ王キュロスの命令により
エルサレム再建のために帰還しました
そこでは礼拝が復活し
燔祭も捧げられ
いよいよ神殿の再建事業が始まります

神殿の基礎が据えられると
イスラエルの民は神を賛美し、大声を上げましたが
その大声の中には
喜びの叫び声とは違う泣き声もありました
バビロン捕囚から70年がたち
なお生き残った人々の中には
バビロンによって破壊される前の神殿を知っている者もあり
かつてのイスラエルの繁栄を知る彼らにとって
今回の神殿はかなり簡素なものだと知って落胆したようです
それでも
一度滅ぼされたエルサレムが復興する喜びで
多くの人々は喜びの叫び声をあげました

こうして
神殿再建を心から喜ぶ人々と
複雑な思いを抱えた人々の声は入り交じり
非常に大きな声となって響いて行きます
そして
改めて神殿の基礎を据えるこの時が
イスラエルの民にとって
信仰生活の再スタートでもありました

”神を愛し、そのみことばに立って歩む”
これが信仰生活の一番大きな基礎です
この基礎(土台)の上に信仰の建築をするわけですが
その土台がどのようであるかによって
上に立つ建築物は変わります

列王記、歴代誌の王たちが
それぞれ神をどのように見てきたかといえば
人生の終わりに、その生活が安定すると
神の存在がどうでもよくなる、、、
そういう人が大半でした

「神を求める心」とか、「神に立つという姿勢」は
すべて本人の問題です
神に聞く人は聞くし、聞かない人は聞かない
信仰とは、あくまでも本人のものですから
その心は本人にしかわかりません
そして
それぞれの思いが基礎となって
その後の人生を左右するのです

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆
岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている
雨が降り、川があふれ
風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった
岩を土台としていたからである
わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆
砂の上に家を建てた愚かな人に似ている
雨が降り、川があふれ
風が吹いてその家に襲いかかると
倒れて、その倒れ方がひどかった」
(マタイによる福音書7章24-27節)


世の中の多くの人は
目に見える財産や家柄や名誉を土台として
そこに希望を置いて生きています
また、それらを得ることを目的として
信仰をする人もあるでしょう
その場合の土台は神ではないので
ひとたび問題が起これば不安に襲われ
そこから心が神に向けばいいのですが
そうならない場合も多いものです

人生には様々な問題があり
誰もそれを避けて通ることはできません
その問題は世の中の知恵では対処できないものもあり
そんな時こそ、信仰の土台が神にある人は
思わぬ知恵や不思議なめぐりあわせによって助けられ
神の救いを実感することができるのです
そして
これが感謝へとつながり
信仰が自分のものとなれば
世の中を恐れることはなくなります

たとえ落ち込むことがあっても
神の助けを思えば励まされ
自分の思い(欲)で間違ってしまっても
それを神によって教えられ、正される
人間は弱いので
なかなか
自分の思いに勝てませんが
色んな不安や惑わしがある中で
それでも神を見上げていく信仰を持っていれば
その心を神は見てくださいます

エルサレムにおいて神殿の基礎が据えられた時
喜びで叫んだ人もいれば
泣いた人もいました
そこにはそれぞれの思いがあって
すべてが感謝とはいかないようです

こうしてスタートした神殿の再建工事も
このまま順調に事は進みません
その戦いの中で人々の心がどこへ向くのか
彼らの信仰の土台はどこにあるのか
それはずっと問われ続けていくのです



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