今週のみことば


10月12日
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「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経て
テサロニケに着いた
ここにはユダヤ人の会堂があった
パウロはいつものように
ユダヤ人の集まっているところへ入って行き
三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い
『メシアは必ず苦しみを受け
死者の中から復活することになっていた』と、また
『このメシアはわたしが伝えているイエスである』
と説明し、論証した」
(使徒行伝17章1-3節)

16章で牢屋から生還したパウロとシラスは
次にテサロニケへ向かいました
ここでもパウロたちは
”イエスがメシア(救い主)であること”を
聖書を引用しながら人々に伝え
多くの人が信じるようになりましたが
それをねたんだユダヤ人によって迫害され
ベレアへと移動します

「ここのユダヤ人たちは
テサロニケのユダヤ人よりも素直で
非常に熱心に御言葉を受け入れ
そのとおりかどうか
毎日、聖書を調べてていた」(11節)


使徒たちの宣教活動において
語られる内容はいつも
”イエスがメシア(救い主)であること”ですが
ベレアのユダヤ人は素直で
パウロが語っていることが正しいかどうかを
聖書を読むことで納得し、信じるようになります
その一方で
テサロニケのユダヤ人はベレアにも押しかけてきて
パウロたちの宣教を迫害するのでした

昔も今も
クリスチャンにとって正しさの基準は聖書にあります
高名な○○先生がこう言った・・・ではなく
あくまでも聖書がどのように語っているか
この基準から外れると
本当に大切なことが分からなくなってしまうのです

「何よりまず心得てほしいのは
聖書の預言は何一つ
自分勝手に解釈すべきではないということです
なぜなら、預言は
決して人間の意思に基づいて語られたのではなく
人々が聖霊に導かれて
神からの言葉を語ったものだからです」
(ペテロの第二の手紙1章20-21節)

「その手紙には難しく理解しにくい箇所があって
無学な人や心の定まらない人は
それを聖書のほかの部分と同様に曲解し
自分の滅びを招いています」
(ペテロの第二の手紙3章16節)

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ
人を教え、戒め、誤りを正し
義に導く訓練をするうえに有益です」
(テモテへの第二の手紙3章16節)


世の中の学説が色々変わっていくように
聖書の解釈も
時代と共に変化していきがちですが
本来聖書は何の欠けたところもなく
そのまま読むべきものであって
そこに人間の考えが入ることは許されていません
しかし
人間は弱いので
どうしてもそこに
自分の都合のいい考えを入れてしまいがちです

それは創世記の時代に
アダムとエバが知恵の木の実を食べることにより
自分が何者で
本来どこにいるべき者であるか
分からなくなってしまったことから始まりました
その時から人の中には罪が入り
神を忘れて
欲に惑わされるようになってしまったのです

「わたしたちは見えるものではなく
見えないものに目を注ぎます
見えるものは過ぎ去りますが
見えないものは永遠に存続するからです」
(コリント人への第二の手紙4章18節)


”目に見えないもの”は神であり
”目に見えるもの”は人間の栄光です
信仰の世界では
自分の栄光はさておいて
何があっても神に栄光を帰することが第一であり
自分にとって不本意な道が開かれたとしても
へりくだって感謝して進むことができる人は幸いです

使徒たちが宣教の旅で伝えていたのは
決して難しい理屈ではありません
”イエスがメシア(救い主)であること”を信じ
その救いを受け入れること
そして
自分が何者であるか、己を知り
神と共にある身の幸いを知ること

目に見えるものに
人はつい心を奪われそうになりますが
目に見えるものにはできない事を成してくださるのが
目に見えない神であることを
信じる者は必ず知ることができるのです



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