今週のみことば


1月12日
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「マリアのところに来て
イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは
イエスを信じた
しかし、中には
ファリサイ派の人々のもとへ行き
イエスのなさったことを告げる者もいた」
(ヨハネによる福音書11章45-46節)

ここは『2019年の聖言』
「イエス言ひ給ふ”石を除けよ”
ここに人々、石を除けたり」

の続きです

イエスのご命令に従って人々が”石を除けた”ことにより
彼らは死んだラザロがよみがえる奇跡を見ました
それによってユダヤ人の多くは
イエスを信じる者となりましたが
中にはそれを
ファリサイ派(パリサイ人)に知らせる者もありました
そして
この奇跡を知ったファリサイ派の人々は
イエスを殺そうと計るのです

   このように
目の前で神の奇跡を見ても
信じて受け入れる人と、そうでない人があります
ファリサイ派の人々がそうであるように
自分を正しいと信じている人は
神の業を受け入れることができません

今回のみことばの重要なポイントは
”石を除けた結果”がどうなったのか?!ということ
人々が考え方を変えて従った結果
彼らは神の奇跡を見た
つまり
この神の証は
”石を除けた人のためにあるもの”なのです

しかし
諸問題の中で神の救いを求め
せっかく神の助けを得ながら
それを自分の手柄にしようとする人もあります
自分ではどうしようもない状態
つまり死んでいるような状態から救い出し
恵まれるチャンスを与えてくださったのは神なのに
それを自分の働きによると勘違いを起こすのですが
あくまでも神の働きによってすべてのことはなされるのですから
自分には力があるとか
自分の信仰が素晴らしいからなどと
思い上がってはいけません

「恐れるな
わたしは最初の者にして最後の者
また生きている者である
一度は死んだが
見よ、世々限りなく生きて
死と陰府(よみ)の鍵を持っている」
(ヨハネの黙示録1章17-18節)


ここには神であるイエスが
どのような方であるかが記されています
イエスによって死よりよみがえらされたラザロは
その後、寿命を全うして死にますが
イエスご自身は一度死んでよみがえり
今も生きて
人間の生命に関わるカギを持っている
つまり
わたしたちの人生のすべてを握っておられるのです

このような方を前にして
わたしたちは自分を正しいということはできません
人間が正しいのではなく神が正しい
そして
わたしたちが神にあることによってこそ
正しくいられるわけです

そう考える時
わたしたちの人生に起こる「不都合なこと」も
それもまたすべて神のご計画の内におこることで
それをもって「神はいない」などとは思わない事
クリスチャンとは
イエスのなさる業を見て
それがどのようなことであっても
必ず幸いに結びつくと信じる人なのです
これは
その先に起こる結果(奇跡)を見ればわかります

問題を抱えて心が弱る時も
神にある希望によって心が変えられますように
そして
自分が変わろうとする人に何が起こるのかを
実際に見ることができますように
生命の鍵を握る神を信じて進んでいきましょう



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