今週のみことば


11月23日
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「週の初めの日
わたしたちがパンを裂くために集まっていると
パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが
その話は夜中まで続いた
わたしたちが集まっていた階上の部屋には
たくさんのともし火がついていた
エウティコという青年が、窓に腰をかけていたが
パウロの話が長々と続いたので
ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった
起こしてみると、もう死んでいた
パウロは降りて行き
彼の上にかがみこみ、抱きかかえて言った
『騒ぐな。まだ生きている』
そして、また上に行って、パンを裂いて食べ
夜明けまで長い間話し続けてから出発した
人々は生き返った青年を連れて帰り
大いに慰められた」
(使徒行伝20章7-12節)

3階から落ちて生き返った青年の話は
「命は神のもの」であることの証です
命も、それに関わる病気も
人の手ではどうすることもできず
人間は自分の力で生きているわけではない事を
実感させられる機会が
わたしたちの日常にもあることでしょう

パウロの話が長すぎて眠ってしまった青年のように
信じる心は持っていても
人間は弱いので
例えば大変な心配事があれば
動揺のあまり神の言葉も聞けないかもしれません
そして
そのままだと死に至っていたことでも
不思議と助けられたという証は
教会には実際にとてもたくさんあるのです

その助けられた奇跡には
病気の癒しや、難問題の解決といった
その人の人生を左右する様々な問題があり
そこに神を求める心があるからこそ
諸問題の中にあっても生かされるわけです

とはいえ
わたしたちの肉体は永遠ではなく
いずれは滅んでいくものですから
病気がいやされて
長生きできることだけが神の証と言うわけではなく
やがて神の定めた時に肉体が滅びても
信仰心が次世代に残っていくなら
それが生きる上での励ましとなり
神の証になるでしょう

「イエスは言われた
『わたしは復活であり、命である
わたしを信じる者は、死んでも生きる
生きていてわたしを信じる者はだれも
決して死ぬことはない
このことを信じるか』」
(ヨハネによる福音書11章25-26節)


マタイによる福音書9章に登場する
12年間も出血が止まらない病気の女性は
『この方(イエス)の服に触れさえすれば治してもらえる』(21節)
と信じ、実際にそうすることで病気は癒されました
その時イエスが
『あなたの信仰があなたを救った』と言われたように
神を信じ、救いを求める気持ちは重要です

「これは人に神を求めさせるためであり
また、彼らが探し求めさえすれば
神を見出すことができるようにということなのです
実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」
(使徒行伝17章27節)


わたしたちの信じる神は
天地万物の創造主であり
人間に何かしてもらわなくてはならないような方ではなく
”すべての人に命と息と
その他すべてのものを与えたくださる方
”であると
聖書は教えています

そして
わたしたちがその神を求めれば見出すことができ
実際に助けを体験することもできるわけですから
人生に色んな問題は起こるけれど
神にあれば大丈夫なのだと
ただそのことを信じ
ただただ
信じ続けて行くことができますように



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