今週のみことば
12月28日
(スマートフォン用ページはこちら)
「パウロと言い争っている問題は
彼ら自身の宗教に関することと
死んでしまったイエスとかいう者のことです
このイエスが生きていると
パウロは主張しているのです
わたしはこれらのことの調査の方法が分からなかったので
『エルサレムへ行き
そこでこれらの件に関して裁判を受けたくはないか』
と言いました
しかし、パウロは
皇帝陛下の判決を受けるときまで
ここにとどめておいてほしいと願い出ましたので
皇帝のもとに護送するまで
彼をとどめておくように命じました』」
(使徒行伝25章19-21節)
ローマから派遣されたユダヤの総督フェストゥスは
前総督フェリクスが
囚人として残していった「パウロ」について
どのように扱うべきか
ユダヤの領主アグリッパ王に話をもちかけます
祭司長たちやユダヤの長老たちは
パウロを有罪にするよう求めているのですが
その問題は
パウロが”イエスの復活”を主張していることにあり
こういう宗教の問題で有罪にしろと言われても
フェストゥスはどうすればいいのか分かりませんでした
そこで彼はパウロに
エルサレムで裁判を受けることを勧めます
しかしパウロはそれを拒否しました
パウロはローマ皇帝に直訴することを求めていたからです
翌日
アグリッパ王や町のおもだった人々が集まったところに
パウロは引き出されました
そこでフェストゥスは改めてパウロについて語ります
ユダヤ人たちは彼を生かしておくべきでないと言いますが
「しかし、彼が死罪に相当するようなことは
何もしていないということがわたしには分かりました
ところが、この者自身が皇帝陛下に上訴したので
護送することに決定しました」25節)
ユダヤの総督が
「彼が死罪に相当するようなことは何もしていない」
と言うのですから
このままローマ皇帝に上訴しなければ
パウロは釈放されたでしょう
しかし
23章11節に記されているように
パウロには自分の進むべき道が
主イエスから直接示されていたのです
『勇気を出せ
エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように
ローマでも証しをしなければならない』
このように
自分の命の事を思えば
パウロは上訴せず逃げても良かったわけですが
彼は最後まで主イエスの言葉に従います
それは彼の確固たる信仰によるものでした
このように
信仰は
その人の歩み(生き方)に反映されてくるものです
クリスチャンの歩みは
主イエスの歩みを模範としたものであり
自分の思いや古い考えが変えられて
「キリストの心」を持つようになることが
信仰の表れなのです
例えば
聖書においては「罪の裁き」についての考え方が
人の思いとは異なっている事例として
ヨハネによる福音書8章の『姦淫の女』があります
当時、姦淫の罪は石打の刑に処せられる重罪でしたが
主イエスは民衆に対して
『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が
まず、この女に石を投げなさい』
と言うと
誰も彼女に石を投げる者はいませんでした
『わたしもあなたを罪に定めない
行きなさい
これからは、もう罪を犯してはならない』
こうして彼女は許されています
そして
この「許す心」を持つことができるようにと
みことばに従っていこうとするのは
信仰がなくては難しい事なのです
「わたしがあなたがたにしたとおりに
あなたがたもするようにと
模範を示したのでである」
(ヨハネによる福音書13章15節)
ここは洗足式について記されたところですが
模範とするのは単に足を洗うことだけではありません
主イエスのすべての言動が
クリスチャンにとっての模範です
今年一年も
楽しかったことよりも
苦労ばかりが思い浮かぶ年だったかもしれません
それでも
一人一人が神に導かれつつ
様々な助けを体験した一年であったことでしょう
パウロのような
過酷な運命とまではいかないとしても
誰しも生きていくというのは
決して楽なものではありません
だからこそ
どんな時も冷静さを失わないように
キリストの心に習った判断ができますようにと
その先にある神の働きを信じて
新しい年も進んでいきたいと思います
<目次