今週のみことば


3月9日
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「その人は
手に測り縄を持って東の方に出て行き
一千アンマを測り
わたしに水の中を渡らせると
水はくるぶしまであった
更に一千アンマを測って
わたしに水を渡らせると、水はひざに達した
更に、一千アンマを測って
わたしに水を渡らせると、水は腰に達した
更に彼が一千アンマを測ると
もはや渡ることのできない川になり
水は増えて
泳がなければ渡ることのできない川になった
彼はわたしに
『人の子よ、見ましたか』と言って
わたしを川岸へ連れ戻した」
(エゼキエル書47章3-6節)


*アンマ・・・長さの単位
文語訳では「キュビト」

ここはエゼキエルが見せられた幻
”神殿から流れる水”について記されています
彼は「その人」に導かれるまま
水の中を渡って行きました

最初は、くるぶし、次は、ひざ
水はだんだん深くなり
やがて歩いて渡ることができないほどになった時には
水の流れに身を任せて泳ぐしかありませんでした

その後エゼキエルは
この水は”生き物を活かす水”であることを教えられます

「川が流れて行く所ではどこでも
群がるすべての生き物は生き返り
魚も非常に多くなる
この水が流れる所では
水がきれいになるからである
この川が流れる所では
すべてのものが生き返る」
(エゼキエル書47章9節)


人間には
自分の意志で歩む自由があります
しかし
水がくるぶし程度の時には
自分の思い通りに歩けても
水が深くなると
その流れに逆らって歩むことはできません

神の存在や信仰がわからない時には
誰でも自分の考えで歩むことでしょう
こうして自分の願いに固執すると
神によって渡らされる川が
とても不本意なものと思えます

進学や就職など人生の節目の時期に当たり
自分の思い通りではない結果に
面白くない思いをしている人もあるかもしれません
それは
神と人との間に「へだたり」があるからで
自分の「こだわり」が
そのへだたりを生んでいるのです

それでも
命の水に触れる木の
果実は食用となり、葉は薬用となる(12節)
とあるように
その木は必ず価値ある良い実を結ぶことが
聖書には約束されています

すべての生き物が生き返る命の水
その水の流れに従って歩み
癒し(=問題の解決)が与えられ
その恵みを味わうことができる人は幸いです



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