今週のみことば
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6月15日
「彼らが使徒たちを引いて来て
最高法院の中に立たせると
大祭司が尋問した
『あの名によって教えてはならないと
厳しく命じておいたではないか
それなのに、お前たちは
エルサレム中に自分の教えを広め
あの男の血を流した責任を
我々に負わせようとしている』
ペテロとほかの使徒たちは答えた
『人間に従うよりも
神に従わなくてはなりません
わたしたちの先祖の神は
あなたがたが木につけて殺したイエスを
復活させられました
神はイスラエルを悔い改めさせ
その罪を許すために
この方を導き手とし、救い主として
御自分の右に上げられました
わたしたちはこの事実の証人であり
また、神が
御自分に従う人々にお与えになった聖霊も
このことを証ししておられます』」
(使徒行伝5章27-32節)
「イエスの名」による救いを語る
使徒たちのところには
次々と病める人たちが押しかけ
そこでは
多くのしるしと奇跡が起こっていました
それを知った大祭司たちは
嫉妬の念に満たされ
また使徒たちを捕えて
留置場に入れてしまいます
以前も同じように彼らを捕え
その時に
”今後一切、イエスの名を語らないように”
と命じておいたにもかかわらず
彼らは
大祭司たちの語る「人間の言葉」には従わず
ただ「神の言葉」だけに従います
というのも
19節以降を読むと
留置場に入れられた彼らのところには
天使がつかわされ
留置場の戸を開けて彼らを外に出し
『行って神殿の境内に立ち
この命の言葉を残らず民衆に告げなさい』
と言われたわけです
この奇跡を目の当たりにして
また、これまで実際に見てきた
「イエスの十字架〜復活〜昇天〜聖霊降臨」と
一連の出来事の証人である使徒たちにとって
もはやその信仰は
権力者がどんなに脅そうが
決して揺らぐものではありませんでした
そこで怒った人々は
使徒たちを殺そうとするのですが
律法学者ガマリエルが止めに入ります
ガマリエルはパリサイ人で
大祭司たちの仲間ではあっても
国民全体に信頼されるほどでしたから
冷静な信仰者であったのでしょう
『あの者たちから手を引きなさい
ほうっておくがよい
あの計画や行動が人間から出たものなら
自滅するだろうし
神から出たものであれば
彼らを滅ぼすことはできない』(38-39節)
この言葉によって
使徒たちは解放されることとなりました
使徒たち、また
このガマリエルにとっても
正しさの判断基準は神にあります
箴言3章6節には
「すべての道で主を認めよ
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」
と記されているように
信仰者は人生にあって
自分がこう思う(こうあってほしい)ではなく
神がどう思われるか、を
常に考える必要があるわけです
一方
使徒たちを迫害する大祭司たちの信仰は
常に自分の思いが第一なので
自分たちの立場を危うくする使徒たちが
邪魔でしょうがない
だから迫害してやれ、、、と
ここには
信仰者が本来持つべき「神の心」はありません
信仰の基本は
神が人間とは比べようもなく
大きな存在であると
知る(認める)ことにあるわけですが
自分では立派な信仰者であると思っている人が
案外そこに気づいていないというのも
よくあることです
そもそも
神がどのような方であるか
「知識」として頭では知っていても
「自分の実感」として感じていないなら
それが本当の信仰に
結びつくのは難しいでしょう
ここで
神とはどのような方なのか?について
記されているみことばを
いくつがあげてみます
「シモン・ペテロが答えた
『主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう
永遠の命の言をもっているのはあなたです』」
(ヨハネによる福音書6章68節)
「更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡
聖霊の賜物を御心に従って分け与えて
証ししておられます」
(ヘブル人への手紙2章4節)
「見よ、神が頭として我々と共におられ
その祭司たちは
あなたたちに対する
進軍のラッパを吹き鳴らそうとしている
イスラエルの人々よ
勝ち目はないのだから
あなたたちの先祖の神
主と戦ってはならない」
(歴代誌下13章12節)
「どのような知恵も
どのような英知も、勧めも
主の御前には無に等しい
戦いの日のために馬が備えられるが
救いは主による」
(箴言21章30-31節)
更に、神であるイエスは
汚れた霊(悪霊)を従わせる事ができます
「そのとき、この会堂に
汚れた霊にとりつかれた男がいて叫んだ
『ナザレのイエス、かまわないでくれ
我々を滅ぼしに来たのか
正体はわかっている。神の聖者だ』
イエスが
『黙れ。この人から出ていけ』と
お叱りになると
汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ
大声をあげて出て行った
人々は皆驚いて、論じ合った
『これはいったいどういうことなのだ
権威ある新しい教えだ
この人が汚れた霊に命じると
その言うことを聞く』」
(マルコによる福音書1章23-27節)
「汚れた霊」は
人を滅ぼすためにやってくる悪霊で
人の心を惑わし
正しい判断ができないようにさせるのですが
「イエスの名」が嫌いです
彼らは
イエスが神であることを知っており
その名によって自分たちが滅ぼされる事を
人間よりも分かっているからでしょう
世の中には
「幸せになるための言葉」があふれていますが
人の言葉に左右されていると
一見よさそうに思えることも
実は的が外れていて
一生懸命やっていても
事態は悪くなるばかりかもしれません
人の言葉とは
そういうあいまいなものに過ぎず
そこに「汚れた霊」は入り込み
人の心を惑わすこともあるのです
結局
わたしたちが信じることのできる言葉は
神から出た言葉しかありません
神の言葉は命の言葉
それこそが
人を活かす力のある言葉だからです
「霊の人は、すべてのものを判断するが
自分自身はだれからも判断されることはない
『だれが主の思いを知って
彼を教えることができようか』
しかし、わたしたちは
キリストの思いを持っている」
(コリント人への第一の手紙2章15-16節)
「霊の人」とは主イエスご自身の事です
神であるイエスは
誰からも教えてもらうことはなく
わたしたち人間が
「キリストの思い(心)」を持ち
その基準で物事を判断するわけですが
神がどういう方であるかを
本当に知れば知るほど
人間(自分)の心の弱さもわかり
欲望や虚栄心を満たそうとする思いから離れて
心豊かな
愛のある人(キリストを持つ人)としての行動を
自然にとろうとするようになるでしょう
このように
信仰心は人柄となって現れます
使徒たちを迫害した大祭司たちは
熱心な信仰者ではありますが
その心にキリストを持っていませんでした
そのために正しいことが分からず
ただ自分の正しさに固執し
己のプライドを保つために使徒たちに嫉妬し
この後も過ちを重ねていくのです
<目次