今週のみことば


6月29日
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「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり
使徒たちのほかは皆
ユダヤとサマリアの地方に散って行った
しかし、信仰深い人々がステファノを葬り
彼のことを思って大変悲しんだ
一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし
男女を問わず引き出して牢に送っていた
さて、散って行った人々は
福音を告げ知らせながら巡り歩いた
フィリポはサマリアの町に下って
人々にキリストを宣べ伝えた
群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので
こぞってその話に聞き入った
実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは
その霊が大声で叫びながら出て行き
多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった
町の人々は大変喜んだ」
(使徒行伝8章2-8節)

ステファノの死後
エルサレムの教会に対する迫害がひどくなり
使徒たち以外の弟子たちは
別の地方へと散っていきました
しかし彼らは単に逃げたのではなく
行った先で福音を伝えて歩き
多くの人々を救いの道へと導きました

フィリポは
ステファノと共に7人の弟子に選ばれた一人ですが
彼はサマリアに出向き
そこでキリストを宣べ伝えています
彼の行うしるし(奇跡)によって
人々はイエスを信じる者となり
この町でフィリポは大変歓迎されました

エルサレムで大きな迫害が起きたことは
弟子たちにとっては大変な試練でしたが
この迫害があったからこそ
弟子たちは別の地方に散らされ
こうして町々に福音が伝えられることとなったわけです
一見、人間にとっては不都合な事でも
神のご計画のうちになされていることは
すべて必要な事なのだと
こういうところからも教えられるのではないでしょうか

さて、フィリポの伝道活動を見て
シモンという人も信じて洗礼を受け
いつもフィリポについて回っては
そこに奇跡としるしが行われることに驚いていました
というのも
シモンは元は魔術師で
自らを「偉大な人物」と言い
奇跡の真似事のようなことをして
人々を驚かしていたからです
しかし
彼の魔術は神から出たものではありません

使徒行伝3章16節にあるように
神の癒しは一時的なものではなく
「完全な癒し」です
これに対して魔術は人の目をごまかすにすぎず
問題の根本が解決するわけではないので
そういう魔術を行ってきたシモンだからこそ
フィリポの奇跡は本物だとわかったのでしょう

その後、エルサレムにいたペテロとヨハネがサマリアへ来て
洗礼を受けた人々に聖霊が降るよう祈りました
「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで
聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである」(16節)

ヨハネによる福音書3章5節において
「だれでも水と霊とによって生まれなければ
神の国に入ることはできない」

と、イエスご自身が語っているように
水(洗礼)と霊(聖霊)は両方受けるべきものです
ですから
弟子たちは洗礼を受けた人々に聖霊も受けるよう
ここでは手を置いて導いています

その様子を見たシモンは
自分が手を置けば誰でも聖霊が受けられるように
その力を授けてもらおうと思い
ペテロたちのところにお金を持ってきました
彼は神の賜物をお金を買えると思いそうしたのですが
ペテロは怒って拒絶します
「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい
神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ
お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない
お前の心が神の前に正しくないからだ」(20-21節)


神がどういう方であるかを知らないシモンは
ペテロによって自分の間違いを教えられます
そもそも自分のことを
「偉大な人物」と言っていたような人ですから
そのような思いも
根本から癒されなくてはなりませんでした
こうして
サマリア地方で福音を伝えたペテロとヨハネは
エルサレムに帰って行きました

一方、フィリポは
天使に導かれ、エチオピア女王の高官に出会い
彼が読んでいたイザヤ書53章について
その示す意味を解説してほしいと頼まれます
ここはイエスの十字架ついて予言しており
そこからイエスの名による救いの話を聞いて
意味を理解した高官は
ちょうど水があるところに来た時
フィリポに言いました
「『ここに水があります
洗礼を受けるのに、何かさまたげがあるでしょうか』
そして、車を止めさせた
フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き
フィリポは宦官に洗礼を授けた
彼らが水の中から上がると
主の霊がフィリポを連れ去った
宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが
喜びにあふれて旅を続けた」(36-39節)

聖書は自分で読んでみても
意味の分からないところがたくさんあり
そのために現在は教会が置かれ
神の教えを説く役割を与えられています

その教えの中でも
「神の救い」に関する教えはとても重要なので
フィリポも洗礼を受けて救われることを話し
それを聞いて納得した高官は
自ら洗礼を受けたいと申し出るのですが
ここを読むとき
彼らが”二人とも水の中に入って行き”とあるように
洗礼は受ける人も授ける人も共に水に入る
「全身浸礼」が行われていたことが分かります
また
洗礼は「イエスの名による」ことも
ここまで何度も出てきました

使徒行伝の時代から長い年月の間には
洗礼のスタイルもずいぶん変わってきていますが
基本的な事はこのように聖書に記されているので
当教会でもそのようにしています

神によって必要な場所へと導かれるフィリポは
その後、アゾトという町に現れ
すべての町を巡りながら福音を伝えていきました
その一方で
サウロによる迫害はますます激しくなり
彼がイエスによって捕らえられる日が
いよいよ近づいてくるのです


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