今週のみことば


9月14日
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「ある人々がユダヤから下ってきて
『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ
あなたがたは救われない』と
兄弟たちに教えていた
それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に
激しい意見の対立と論争が生じた
この件について使徒や長老たちと協議するために
パウロとバルナバ、そのほか数名の者が
エルサレムに上ることに決まった」
(使徒行伝15章1-2節)

イエスの名によるバプテスマを受ける救いの教えが
異邦人にも広く伝わっていく一方で
モーセの律法を持ち出し
『割礼を受けなければ
あなたがたは救われない』

と、主張する人々が出てきました

モーセの律法を守ることによる救いの教えを受けてきた
ファリサイ派の人々の中には
イエスの教えを信じる信者になった人もありますが
どうしても昔の教えから離れることができず
信仰に「割礼」を持ち込むことを求めたようです

これについて
ペテロが会衆に説教を始めました
元はと言えば
ペテロが神の選びにより異邦人に遣わされ
イエスの名による救いが異邦人にも伝わったわけです
この救いは
割礼を受けているユダヤ人も
無割礼の異邦人も
分け隔てなく与えられるもので
これは”神の恵み”によるものであることを
ペテロは力説するのでした

「それなのに、なぜ今あなたがたは
先祖もわたしたちも負いきれなかった軛(くびき)を
あの弟子たちの首にかけて
神を試みようとするのですか
わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると
信じているのですが
これは、彼ら異邦人も同じことです」
(10-11節)


モーセの律法を守る信仰を教えられてきたユダヤ人にとって
それを完全に守ることがどんなに大変な事かは
ペテロが律法を軛(くびき)と表現していることでわかります
軛(くびき)とは”自由を束縛するもの”
イエスの十字架による救いは
その軛(くびき)から人々を開放するものであるはずなのに
なおも軛をかけようとするなら
それは神を試みることになるというのです

イエスの名によるバプテスマを受けることが救いであり
過去の律法である割礼は
救いにはもはや関係なくなりましたが
それでも、昔からの教えというものを
人間はなかなか捨てられないようです

現在のわたしたちの信仰生活においても
昔の人の言い伝えや習慣が
ちょうどモーセの律法のように
信仰の足かせになって
真理から遠ざかる要因となっているかもしれません

せっかくクリスチャンになっても
その心はキリストの思いからは遠く離れ
律法を守ることにのみ熱心になっていくのでは
「救いの意味」がどこにあるのかが
わからなくなっているということでしょう

「だれが主の思いを知り
主を教えるというのか
しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」
(コリント人への第一の手紙2章16節)


”キリストの思い”とは
ヨハネによる福音書15章13節に
「友のために自分の命を捨てること
これ以上に大きな愛はない」

と記されているように
イエスが全人類のために十字架にかかって血を流し
その血による救い(洗礼のバプテスマ)を
人類に与えることを示しています
これは神にしか与えられない究極の愛ですが
クリスチャンは
この神の思いを理解し、共有し、感謝する者として
その心が成長することが求められているわけです

「ところが今や、律法とは関係なく
しかも律法と預言者とによって立証されて
神の義が示されました
すなわち、イエス・キリストを信じることにより
信じる者すべてに与えられる神の義です
そこには何の差別もありません
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが
ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業を通して
神の恵みにより無償で義とされるのです」
(ローマ人への手紙3章21-24節)


神の前に義とされる救いは
律法の行いとは関係なく
信じる者には皆
神の恵みにより無償で与えられるものです
そして
救いにあずかったクリスチャンが守るべきことは
ヨハネによる福音書15章12節に
イエスご自身によって語られています
「わたしがあなたがたを愛したように
互いに愛し合いなさい
これがわたしの掟である」


古い律法を追い求める信仰生活ではなく
神の心を思い
その救いに感謝し
日々、自分に定められた道を走り通して
神の恵みとはどのようなものであるかを体験する
そのような幸いな信仰生活を求めていきたいものです



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