今週のみことば


9月21日
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「数日の後、パウロはバルナバに言った
『さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へ
もう一度行って兄弟たちを訪問し
どのようにしているかを見て来ようではないか』
バルナバはマルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った
しかし、パウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ
宣教に一緒に行かなかったような者は
連れて行くべきではないと考えた
そこで、意見が激しく衝突し
彼らはついに別行動をとるようになって
バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが
一方、パウロはシラスを選び
兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した
そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた」
(使徒行伝15章36-41節)

ここでは
パウロとバルナバの間に
意見の相違から衝突あったことが記されていますが
その議論の内容(マルコを連れて行くべきか否か)については
どちらの意見が正しいという結論はなく
最終的に両者は別行動をとっています

クリスチャン同士であっても
更には、その中で指導的立場の牧師同士であっても
人間は決して神にはなりえない
つまり
誰かの意見が完全に正しいとは言えないわけです

14章15節では
奇跡の業を行ったパウロとバルナバに対して
人々が神と崇めていけにえを捧げようとした時
パウロたちは
『わたしたちもあなたがたと同じ人間にすぎません』
と言って、その行動をとどめていました

このように
人間はしょせん人間ですから
考え方の違いもあれば
そこからケンカになることもあるでしょう
実際にパウロたちはそのようになったわけですが
彼らはいつまでもそこにとどまることなく
「福音伝道」という本来の使命のために
それぞれ出発していきました

色々な問題が起きた時
”人間の思いや考えですることは
すべてが正しいわけではない”
と考えるのはとても大切な事です
クリスチャンにとって本当に正しい事の基準は
常に聖書(=神)にありますから
例え自分の考えが正しいと思っても
そこで相手を論破することを目的とせず
”神の恵みの内にある者はどうするべきか”を
冷静に考える必要があるわけです

現代の「福音伝道」の方法についても
人によって色んな考えがあるでしょうし
そこで議論になることもあるかもしれません
しかし
クリスチャンの歩みは
”神の恵みにゆだねられた者”として
”愛を持った歩み”であることが求められています
それが
”神の前に働く”ことであり
そういう歩みをする人が恵まれて行くのです

「主がこの人々を助けられたので
信じて主に立ち帰った者の数は多かった」
(使徒行伝11章21節)


ユダヤ人以外の異邦人にも
福音が伝えられるようになった時にも
使徒たちは神の助けにより力を与えられ
その結果たくさんの人々が信じる者となりました
これが
”神の恵みにゆだねられた者”の受ける恵みであり
バルナバはそのような恵みの有様を見て喜び
決して神から離れないようにと
皆に勧めたと記されています

そのバルナバが24節で
”聖霊と信仰とに満ちた立派な人物”と称されているのは
自らの立場をわきまえ
自分が偉いと勘違いを起こさず
ただ自分に与えられた使命のために働き
神に喜ばれる道から外れなかったからでしょう

昔も今も
人は目に見える指導者を神のごとく思い
指導者もまた勘違いを起こすことがあります
『〇〇先生の言うことだから正しい』のではなく
『聖書が教えていることだから正しい』という判断基準を持って
神に喜ばれる道を歩んでいきたいものです



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