今週のみことば


10月10日

(スマートフォン用ページはこちら


「わたしたちは多くの人々のように
神の言葉を売り物にせず
誠実に、また神に属する者として
神の御前でキリストに結ばれ語っています
(コリント人への第二の手紙2章17節)

「わたしたちは、またもや自分を
推薦し始めているのでしょうか
それとも、ある人々のように
あなたがたへの推薦状
あるいはあなたがたからの推薦状が
わたしたちに必要なのでしょうか
わたしたちの推薦状は
あなたがた自身です
それは、わたしたちの心に書かれており
すべての人々から知られ、読まれています」
(コリント人への第二の手紙3章1-2節)

当時の教会には
「神の言葉を売り物に」する
偽物の福音伝道者が多く存在しており
パウロが「真の福音」を伝道するにあたっては
推薦状が必要であったようです
しかし
多くの人々がキリストの福音を受け入れ
主イエスの名による救いにあずかって
各々が幸いな姿へ変えられている現状を見れば
文字の推薦状はもはや必要ありません
つまり
キリストに結ばれたクリスチャン自身の歩みこそ
彼らが信じているキリストの福音が
真の福音であるとの推薦状だからです

「神はわたしたちに
新しい契約に仕える資格
文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました
文字は殺しますが、霊は生かします」(6節)


モーセの律法という「文字」に仕えるのは
古い時代の神の契約です
そして
今はその「古い契約」に変わって
救い主イエスによる「新しい契約」が与えら
パウロたちはそれを伝える役目を与えられました
文字(律法)に仕える信仰では
人々は救われませんでしたが
キリストの霊に仕える信仰によって
すべての人が生かされることになったのです

かつて「古い契約」の時代の指導者であったモーセは
彼の働きが「文字に基づいて死に仕える務め」(7節)であっても
栄光を帯び、その顔は人々が直視できないほど
輝いていたと記されています
ならば
「霊に仕える務めは、なおさら
栄光を帯びているはずではありませんか」(8節)


「そして、かつて栄光を与えられたものも
この場合、はるかに優れた栄光のために
栄光が失われています
なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら
永続するものは
なおさら、栄光に包まれているはずだからです」(10‐11節)


このようにパウロは
「古い契約」の時代の信仰感が残る人々に
「新しい契約」の信仰の重要性を説いていくのですが
「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました
今日にいたるまで
古い契約が読まれる際に
この覆(おお)いは除かれずに掛ったままなのです
それはキリストにおいて
取り除かれるものだからです
このため
今日に至るまで
モーセの書が読まれる時は
いつでも彼らの心には覆いがかかっています」(14‐15節)


文字(律法)に仕える古い信仰から離れるのは
それを続けてきた人にはなかなか難しいことです
それは彼らの心には「おおい」がかかっているからで
これが取り除かれない限り
「真理」は分かりません

「しかし、主の方に向き直れば
覆いは取り去られます
ここでいう主とは”霊”のことですが
主の霊のおられるところに自由があります」(16‐17節)


「古い契約」は律法でしばられていましたが
「新しい契約」の信仰には自由があります
ところが
せっかく「神による自由」を得たというのに
肝心な主イエスの方を向かないで
ただ
「〜しなければならない」
あるいは
「〜してはならない」と
相変わらず「文字」に従う不自由な信仰は
現代の教会にも根強く残っています
このように
文字(規則)で人をしばった方が
教会として統制が取りやすいかもしれませんが
文字で人を支配する信仰は
すでに過ぎ去った古い時代の信仰であっても
心に「おおい」がかかっていると
それが正しいことだと思えてしまうのです

「わたしたちは皆
顔の覆いを除かれて
鏡のように主の栄光を映し出しながら
栄光から栄光へと
主と同じ姿に造りかえられていきます
これは主の霊によることです」(18節)


世の中においては
人はその肩書で量られるものですが
キリストに救われて聖別されているクリスチャンは
「主と同じ姿に造りかえられる」と記されています
それは世の中で
何か偉い者になるというのではありません
わたしたちは信仰に自分の栄光を望むのではなく
その生き方によって神の栄光を反映する者となる
これは2節に
「わたしたちの推薦状はあなたがた自身です」
と記されているのと同じです

ところが
キリストに聖別されながらも
なおわたしたちには様々な自分の思い(欲)があり
地位や名誉といった自分の栄光への願望が
「顔のおおい」となって
真理(神)を見えないようにするのです
そのような状態で
自分の信仰をアピールしても
人はそれを正しいとは思わず
それどころか
神の栄光さえも否定されてしまうかもしれません

また
聖書を「律法(おきて)」として読み
その文字に仕え
律法を守っている自分の信仰を誇るなら
それもまた「顔のおおい」となって
真理から離れていくでしょう

このように
様々な自分の思いは「顔のおおい」となって
神を見えないようにし
やがて神を見なくても大丈夫だと
その信仰も揺らいでいきます

聖書は
人によってどのようにも解釈できるものですから
自分の思うように解釈し
都合よく信仰することは
現実に多く見られることです
ただ、そのような信仰からは
神よりの本当の平安は得られません

「わたしは慰めに満たされており
どんな苦難のうちにあっても
喜びに満ちあふれています」
(コリント人への第二の手紙7章4節)


このように生きることのできる人の姿は
多くの人にとって憧れです
そして
本当にこの強さや平安を与える神こそ
真の神であると
人は認めるのではないでしょうか


<目次