今週のみことば


10月17日

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「こういうわけで、わたしたちは
憐れみを受けた者として
この務めをゆだねられているのですから
落胆しません
かえって、卑劣な隠れた行いを捨て
悪賢く歩まず
神の言葉を曲げず
真理を明らかにすることにより
神の御前で自分自身を
すべての人の良心にゆだねます」
(コリント人への第二の手紙4章1‐2節)

キリストの福音伝道という務めをゆだねられたパウロは
自分が神のあわれにみよって救われ
聖霊の働きによって
神の栄光を映し出しながら歩んでいると知っているので
そこにどんなに辛いことがあっても
決して落胆することはありませんでした
そればかりか
当時の教会において
しばしば行われていた
神の言葉を曲げるようなことをせず
自分自身を誇ることもなく
主イエスを宣べ伝えることに専念していたのです

彼はもとはキリストを迫害する者でしたが
主イエスに捕らえられ、救われて
「憐れみを受けた者」とされました
その「あわれみ」によって
それまで顔をおおっていた「おおい」が取られ
持っていた色んな思想が除かれて
真の神が見えるようになったのです
こうして彼は
この世の神(思想)によって惑わされていた自分から
真の神の福音の光が届く者とされ
神の栄光を悟る光を与えられました

「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく
主であるイエス・キリストを宣べ伝えています
わたしたち自身は、イエスのために
あなたがたに仕えるしもべなのです」(5節)


パウロがこのように言えるのは
彼自身に
”神によって今の恵まれた自分がいる”
との確信があるからです
そこには指導者にありがちな
自分自身の誇りや
自分に力があるように勘違いする傲慢さもありません

人間はみな
土から造られたもの
この何の価値もない「土の器」に
聖霊という「宝」を持つことで
人は強くされる
パウロは家柄もよく、学もあり
世の中では一目置かれる存在でしたが
神の前には
そのようなものは何の価値もないことを
「神の栄光を悟る光」を与えられることで
知ることができました

「ところで、わたしたちは
このような宝を土の器に納めています
この並外れて偉大な力が神のものであって
わたしたちから出たものではないことが
明らかになるために」(7節)


だからわたしたちは
どんな時にも失望したり落胆したりしません
わたしたちが自分の力やがんばりではなく
どれほど大きな力に守られているのか
神がどのように偉大であるのか
それを示すために
先には必ず神の証があるからです
なぜなら
イエスの十字架の死による救いを受けたクリスチャンは
イエスの命をこの身をもって現していくのですから

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず
途方に暮れても失望せず
しいたげられても見捨てられず
打ち倒されても滅ぼされない
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています
イエスの命がこの体に現れるために」(8‐10節)


だからわたしたちは
どんな悩みにも支配されはしません
自分自身には力がなくても
神の力がそこに現れるために
この身が用いられ
困難を乗り越えることができるからです

「だからわたしたちは落胆しません
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても
わたしたちの「内なる人」は
日々新たにされていきます」(16節)


”どんな時も落胆しない”
これは信仰に生きる人の基本です
「外なる人」すなわち目に見える外観や
富や名誉といった世のものは
永遠ではありませんが(→失望)
「内なる人」である聖霊は
永遠に滅びず
わたしたちを活かし続けます(→希望)

「わたしたちは見えるものではなく
見えないものに目を注ぎます
見えるものは過ぎ去りますが
見えないものは永遠に存続するからです」(18節)


昔の目に見える律法の行いによる信仰はすたれ
今は目に見えない神の愛による信仰で
わたしたちは生かされることになりました
一人一人の歩む道は
すべて神のご計画によるものですから
自分の願いとは違うことも多く
信仰をしていても
あの人には神の業が素早くなされたのに
自分にはならない・・・と
人と比べて落ち込むこともあるかもしれません
これは
その人の信仰の行為が足らないとか
そういうことではなく
一人一人には別の賜物(役割)があって
神の導きはどのように現れるか
人には分からないのだと知る必要があります

コリント人への第一の手紙12章では
この「賜物」について記されていました
パウロには使徒としての務めが与えられ
そのために必要な賜物も与えられましたが
彼は与えられた賜物を特権のように乱用せず
身に危険が迫っても
務めから逃げ出すこともしていません
彼の人生は
常に戦いの連続でしたが
主イエスに救われて共にあるがゆえに
力と勇気を与えられて働き続けることができました
そして
パウロが信じた主イエスの言葉を
今はわたしたちが彼の手紙(聖書)を通して信じている
それは
単に文字による知識として知っているのではなく
聖霊による信仰によって信じているのです

だから
どんな時も落胆しない
自分自身にではなく
神に栄光を帰すために
自分の中に聖霊という命が働いていることを信じて
与えられた道を進んでいきましょう



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