今週のみことば


10月31日

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「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても
神によって建物が備えられていることを
わたしたちは知っています
人の手で造られたものではない
天にある永遠の住みかです
わたしたちは天から与えられる住みかを
上に着たいと切に願って
この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」
(コリント人への第二の手紙5章1‐2節)

わたしたちの「地上の住みか」すなわち「肉体」は
いつかは滅びていくものですが
救いを受けている者には
「天にある永遠の住みか」すなわち
滅びることのない「栄光の体」が用意されています
これを知っているパウロは
滅びゆく肉体の上に
滅びない栄光の体を着ることができたら
どんなに幸いだろうかと願いつつも
現実には
わたしたちは肉体を持つがゆえに
日々苦しんでいると語ります
しかし
彼は決してこの肉体を捨てたい(死にたい)と
思っているのではありません
この肉体が重荷を負って苦しんでいる時も
希望を持って強く生きていくことができるように
信仰を持って歩んでいきたいのです

「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために
天から与えられる住みかを上に着たいからです」(4節)


「わたしたちを、このようになるのに
ふさわしい者として下さったのは神です
神は、その保証として”霊”を与えてくださったのです」(5節)


現実には
この肉体をもって生きている間は
わたしたちは神から離れていますが
聖霊によって心が強められ
信仰によって歩んでいます

「目に見えるものによらず
信仰によって歩んでいるからです」(7節)


そして
どのような状態にあっても
「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9節)

「なぜなら、わたしたちは皆
キリストの裁きの座の前に立ち
善であれ悪であれ
めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて
報いを受けねばならないからです」(10節)


昔の律法(おきて)による信仰の時代が過ぎ
神の恵みによる自由な信仰の時代になった今も
わたしたちは
神の愛に習う善い行いを尊び
肉の欲から出る悪行を避け
どのように行動するのが正しいのかを
考えていく必要があります
ここで「報いを受けねばならない」と記されていることが
具体的にどういうことかはわかりませんが
自分の成してきたことが
やがて明らかになるということなのでしょう
ただ、「報い」が・・・という以前に
「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」
と思う心を持つことが重要です
「主を信じ、おそれる心」
それがあるならまず悪いことはできません

「主に対するおそれを知っているわたしたちは
人々の説得に努めます
わたしたちは、神にはありのままに知られています
わたしはあなたがたの良心にも
ありのままに知られたいと思います」(11節)


わたしたち人間の心は
神によってすべて知られています
だからこそパウロは
自分が心から信じるキリストを伝えたいと
その心をそのまま知ってもらいたいと願うのです
その相手が
内面ではなく外面を誇るような人であっても
自分が「神にある」ことを堂々と誇り
相手から「正気ではない」と言われても
キリストの愛によって自分が駆り立てられていることを
そのまままっすぐ伝えていくのです

パウロ自身は
人が誇りたくなるような外面(家柄や名誉など)を
キリストに出会うことですべて捨てた人でした
信仰とは
どのようなことがあっても
神に希望を置いて歩むこと
目に見えるもの(外面)を誇りとし
それに希望を置くのではなく
また
それを求めるために信仰するものでもない
このように
パウロは救われることで
その心を変えられていったのです

「だから、キリストと結ばれる人は誰でも
新しく創造された者なのです
古いものは過ぎ去り
新しいものが生じた」(17節)


更にパウロは
キリストによる救いは
神と人間との和解であることに言及しています

「つまり、神はキリストによって
世をご自分を和解させ
人々の罪の責任を問うことなく
和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(19節)


最初の人アダムによって人類に入った罪は
この和解によって許され
キリストによる救いを受けた者は
罪を問われなくなりました
ですから
10節に記されている「裁き」についても
それによって和解(救い)が無効になるわけではなく
やがて「天にある永遠の住みか」が与えられることに
変わりはありません
ただし
最後の21節に記されていることを
わたしたちは忘れてはならないのです

「罪と何のかかわりもない方を
神はわたしたちのために罪となさいました
わたしたちはその方によって
神の義を得ることができたのです」(21節)


「神の義」を得たわたしたちは
キリストの救いによって
神との正しい関係を結び
神から見て罪のない者とされました
ですから
そのような幸いな立場にされていることに感謝するとともに
「目に見えるもの(外面)」に頼り
それを重要視していた生き方から
「目には見えない神への希望」を頼りに生きるように
心が変わっていかなくてはならないのです

「主から罪があると見なされない人は幸いである」
(ローマ人への手紙4章8節)


キリストによる救いで罪がなくなったのなら
何をしても良いというのではなく
欲に惑わされて利得の道に歩まず
いよいよ神の前に低くなって
神に栄光を帰して歩んでいきたい
そして
内に宿る聖霊によって心強められ
どんな時も神が共にいてくださるとの信仰で
困難を乗り越えていく
その信仰こそが
神に喜ばれるものなのです

「キリストの内には
満ちあふれる神性が、余すところなく
見える形をとって宿っており
あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです」
(コロサイ人への手紙2章9‐10節)




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