今週のみことば


11月28日

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「兄弟たち
マケドニア州の諸教会に与えられた
神の恵みについて知らせましょう
彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに
その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て
人に惜しまず施す豊かさとなったということです
わたしは証ししますが
彼らは力に応じて、また力以上に
自分から進んで
聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に
参加させてほしいと
しきりにわたしたちに願い出たのでした」
(コリント人への第二の手紙8章1-3節)

ここに記されている
マケドニア教会に与えられた「神の恵み」とは
教会として立派な建物ができたとか
そういう表面的な豊かさではなく
救われた人々の心が神によって変えられていったこと
つまり、内面の豊かさを表しています

マケドニアの人々は大変な試練の中にありながら
自分たちの苦しみや貧しさが
神の恵みによって
神の愛に満ちた豊かな心へと変えられ
人に施しをする慈善の業に自ら加わっていくのです

この「神の恵みに満ちた人」の状態は
6章10節にも記されています
「悲しんでいるようで常に喜び
物乞いのようで
多くの人を富ませ
無一文のようで
すべてのものを所有しています」


これは一見矛盾しているようですが
神であるイエスご自身が
すべてのことができる神の地位を捨てて
自ら貧しくなり
その結果としてすべての人を救う道を開き
多くの人を豊かにさせたことを示しており
それに習う者もまた
同じようになるということなのです

「あなたがたは
わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています
すなわち、主は豊かであったのに
あなたがたのために貧しくなられた
それは、主の貧しさによって
あなたがたが豊かになるためだったのです」(9節)


自分が苦労している時
あるいは苦労してきた過去がある場合
人は自分のことしか考えなくなってしまいがちです
しかし
クリスチャンは
自分が苦労しているからこそ
その苦労が神の愛によって良い形に生き
人に与えられる人に成長してほしい
それこそが神の恵みなのです・・・と
パウロは主張します

更にパウロは慈善の業について
「わたしは命令としてこう言っているのではありません」(8節)
と断った上で
以下のように記しています

「進んで行う気持ちがあれば
持たないものではなく
持っているものに応じて
神に受け入れられるのです
他の人々には楽をさせて
あなたがたに苦労をかけるということではなく
釣り合いがとれるようにするわけです
あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば
いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり
こうして釣り合いがとれるのです」(12‐14節)


人に与える慈善の業は
命令されてするものではなく
神にある愛の心から出るべき行いです
しかも
決して無理をしない事が前提で
持っているものに応じてすること
そして
こうすることの意味は
お互いが思いやりをもって助け合うことで
みんなに過不足がないように
釣り合いが取れるようにするためなのです

この「釣り合いがとれる」ことの例として
15節には
出エジプトにおいてマナが与えられた時の言葉が
引用されています

「多く集めた者も、余ることはなく
わずかしか集めなかった者も
不足することはなかった」(15節)


力のある者もない者も
それぞれの必要に応じて
神は各々に必要な物を与えてくださる
これこそが「神の恵み」であり
これは時代を超えてもずっと
わたしたちの心を支えてくれる希望の言葉です

実際に
クリスチャンは日常生活を通して
一人一人
置かれた立場は違っていても
見たところはみんな違っても
それぞれにちょうどいい人生が与えられる
それが本当であることを体験し
試練の中で神がどのように働いてくださるかを
見ることができるわけです

この後
コリントの教会には
テトスたち、諸教会からの使者が遣わされます
彼らはパウロの信頼する信仰熱心な人物で
そんな彼らは
コリントの人々に厚い信頼を寄せているとのことですから
自分たちが神の恵みを受け
キリストに似る者として
いよいよその心が豊かになっていく姿を
これから遣わされる諸教会の使者たちに示してほしいと
パウロは願うのでした

「だから、あなたがたの愛の証と
あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証とを
諸教会の前で彼らに見せてください」(24節)




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