今週のみことば


12月26日

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「もう一度言います
だれもわたしを愚か者と思わないでほしい
しかし、もしあなたがたがそう思うなら
わたしを愚か者だと見なすがよい
そうすれば、わたしも少しは誇ることができる
わたしがこれから話すことは
主の御心に従ってではなく
愚か者のように誇れると確信して話すのです
多くの者が肉に従って誇っているので
わたしも誇ることにしよう」
(コリント人への第二の手紙11章16-18節)

偽物の使徒の出現により
彼らの言葉を信じたコリントの人々から
誤解されていたパウロは
自分が本物の使徒として
キリストの福音宣教のために
これまでどれほどの苦労をしてきたか
それはいつ死んでもおかしくないような
非常に過酷な状況の連続であったことを
23節以降、切々と語っています

また
その前には
自分がアブラハムの子孫であることも語っており
こういう「家柄の誇り」や
自分の苦労を誇りのように語ることは
本来パウロはしてこなかったのですが
あまりにも愚か者扱いされ
それが宣教のさまたげになると思うと
ここで一度はっきり
真実を告げておかなくてはならないと思ったのでしょう

「言うのも恥ずかしいことですが
わたしたちの態度は弱すぎたのです
だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら
愚か者になったつもりで言いますが
わたしもあえて誇ろう」(22節)


こうして
今まで何度も死ぬほどの目に遭いながら
それでも福音宣教をやめるどころから
今も常に教会についての心配事を抱えていることを語るパウロ
彼のこの熱心はどこからきているのでしょうか

「だれかが弱っているなら
わたしは弱らないでいられるでしょうか
だれかがつまづくなら
わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」(29節)

パウロは使徒として
自分自身を誇るために宣教をしているのではありません
彼は宣教せずにはいられない熱い思いを持っていました
それは
彼には”キリストに捕らえられた体験”があり
その力と栄光を目の当たりにした経緯から
キリストを誇らずにはいられない
そして弱っている人々を勇気づけたいのです

だからこれまで
指導者としての自分を大きく見せようとはせず
自分を誇ることもしてこなかったのですが
そのために誤解を受け
使徒としての信用を失ってしまったのでは困ります

こうして
誤解を解くために
あえて自分を誇った上で
最後は以下のように締めくくりました

「誇る必要があるなら
わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(30節)


ここでは
ダマスコで捕らえられそうになった時
「わたしは、窓からかごで城壁づたいにつり降ろされて
彼の手を逃れたのでした」(33節)

と語っているように
勇ましく戦うわけではなく
そっと逃げ出しました
そして実際に逃げ延びることができたのは
神の助けによるものです

弱い自分がどのように助けられてきたのか
その真実を語ることは
人間としては恥だとしても
神に栄光を帰することですから
神にあっては正しいことです

10章の17節には
「誇る者は主を誇れ」とあるように
わたしたちは常に
神に栄光を帰することを教えられるのですが
『神が素晴らしい』と口で言うのは簡単でも
自分にとって恥になることは
特に指導的立場にいる人ほど語りたくないものでしょう
それでも
この恥となる自分の弱さを語るところに
パウロの信仰が表れています
彼は何としても神の素晴らしさを語りたい
そうせずにはいられないのです

多くの人は
肉にあって
目に見えることを比べて誇ろうとします
しかし
霊にあっては誰も誇ることはできません
それは
神のような人は誰もいないからです
パウロはそれをよく知っており
人々にも知ってほしいと思っていますが
なかなか理解されない葛藤がありました

自分を誇れば、その先は空しいことになり
神を誇れば、その恵みにあずかることができる
仮に自分が何か素晴らしい人になったとしても
それは神によるものと思い
自分を格好よく見せようと思わないこと・・・

クリスチャンとしての
この大切な心得を
繰り返し教えられながら
今年も終わろうとしています

<2020年の年頭の聖言>
「然(さ)されど我らは
キリストの心を有(も)てり」

(コリント前書2章16節)



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