今週のみことば


2月15日
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「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは
何を得たと言うべきでしょうか
もし、彼が行いによって義とされたのであれば
誇っても良いが
神の前ではそれはできません
聖書には何と書いてありますか
『アブラハムは神を信じた
それが、彼の義と認められた』とあります」
(ローマ人への手紙4章1-3節)

前回の3章では
”人が義とされる(救われる)のは
律法の行いによるのではなく信仰による”
ということについて記されていましたが
4章では
「信仰の父」と呼ばれるアブラハムが
どのようにして神から義と認められたのか?
ということを述べています

創世記15章において
神の言葉が幻の中でアブラハムに臨みました
そして
子どものいない年老いたアブラハムに対して
多く子孫を与えると約束されるのです
「『天を仰いで、星を数えることができるなら
数えてみるがよい』
そして言われた
『あなたの子孫はこのようになる』
アブラハムは主を信じた
主はそれを彼の義と認められた」


このように
アブラハムが神から義(=罪がない)と認められたのは
何か立派な行いをしたからではなく
ただ神の祝福の約束を信じたからです
その神の言葉を聞いた時
彼はおよそ百歳で、妻のサラは90歳
常識で考えれば
とても子どもが与えられる年齢ではありませんでしたが
「彼は希望するすべもなかった時に
なおも望みを抱いて、信じ
『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに
多くの民の父となりました」
(ローマ人への手紙4章18節)


また
アブラハムは
神の律法である「割礼」を受けていましたが
彼が神に義と認められたのは
割礼を受ける前だとパウロは言及しています
「アブラハムは
割礼を受ける前に
信仰によって義とされた証しとして
割礼の印を受けたのです
こうして彼は
割礼のないままに信じるすべての人の父となり
彼らも義と認められました」(11節)


つまり
割礼を受けようが受けまいが
神から義(罪がない)とされることには
関係がないというのです
そして
アブラハムとは縁のないわたしたちにも
主イエスの名による救い(洗礼と聖霊)が与えられ
人の立派な行いや修行によらず
神の恵みによって
義とされる(救われる)道が開かれました
この救いの先にあるのは
”希望するすべもなかった時に
なおも望みを抱いて、信じた”

アブラハムの信仰に習う生活です

人の心の中には色んな思いがあって
それのすべてが正しいわけではありません
表向きは立派なことを考えているようで
その裏には卑屈な心があり
自分の感情に支配されると
自暴自棄になったり
間違った方向に進みがちです
しかし
人生に行き詰まりを感じた時
それでも
神さまが必ず幸いにしてくださると信じる信仰
それがアブラハムの信仰です

自分の努力ではなく
自分の義でもなく
神の恵みによって救われたクリスチャンは
神の恵みによって信仰に立ち
わき起こる様々な感情よりも
キリストの心を自分の心とすることで
様々な問題に勝利していくことができる
それは
人間は死からよみがえることはできませんが
すべてのことができる神が共にあるからこそ
できることなのです

花にも大きくて目立つ花や
小さくて地味な花があるように
人間にもいろんな人があり
努力では変えられないこともあります
そのために
面白くない思いをすることもあるでしょう
それでも
大きい花は努力して大きく咲くのでもなければ
小さい花が横着で小さく咲くのでもなく
ひとつひとつの花には
神から与えられた役割があります
そして
わたしたちにも一人一人に与えられた使命があって
自らが咲くのではなく
神の恵みによって咲くことができるのだと悟り
その恵みの中に置かれていることに感謝して
神に喜ばれる信仰者として
成長していくことができますように



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