今週のみことば


2月22日
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「このように、わたしたちは
信仰によって義とされたのだから
わたしたちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており
このキリストのおかげで
今の恵みに信仰によって導き入れられ
神の栄光にあずかる希望を誇りにしています
そればかりでなく
苦難をも誇りとします
わたしたちは知っているのです
苦難は忍耐を、忍耐は練達を
練達は希望を生むということを
希望はわたしたちをあざむくことがありません
わたしたちに与えられた聖霊によって
神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」
(ローマ人への手紙5章1-5節)

”人が義とされる(救われる)のは
律法の行いによるのではなく信仰による”
そして
この「信仰」とは
主イエスを救い主と信じる信仰であり
人は皆
キリストの血(洗礼)によって義とされるのです

こうして信仰によって義とされた者は
神との間に平和を得た者としての
恵みを与えられ
神の栄光にあずかる「希望」を誇りとするだけでなく
「苦難」をも誇りとするというのです

誰も苦難を喜ぶ人はいないでしょうが
神にあって「忍耐」していくとき
そこには「練達」を生ずるとあります
「練達」とは
”奥義を知る”ということ
つまり
”神がどのような方であるかを知る”という域に達することです
そして
神がどのような方かわかるようになると
その先に生じるのは「希望」です

”希望はわたしたちをあざむくことがありません”

人生に困った問題はつきもので
不安材料は常にあります
そんな中で
主イエスを信じるクリスチャンは
周りと同じように不安に襲われつつも
信仰をもって通り過ぎることができるので
パニックに陥らず
きっと神さまが何とかしてくださると
希望を持って進んでいくことができます
それは
”神との間に平和を得た(救われた)者”の持つ恵みであり
信仰からの希望を持つがゆえに
決してそれが失望に終わることはないと
みことばには記されているのです

なお、1節の
”わたしたちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており”

ということについて
では以前に神との間に何があったのか
誰が罪を犯したのかが
12節以降に記されています

「このようなわけで
一人の人によって罪が世に入り
罪によって死が入り込んだように
死はすべての人に及んだのです
すべての人が罪を犯したからです」(12節)


この「一人の人」は創世記3章にあるところの
「善悪を知る木の実」を食べたアダムのことです
神から決して食べてはいけないとされた木の実を食べたアダムの罪は
全人類の罪となりました
しかし
「一人の人」イエス・キリストが十字架にかかり
血を流すことで
すべての人が罪から救われて義とされる機会が与えられたのです

「一人の人の罪によって
すべての人に有罪の判決が下されたように
一人の正しい行為によって
すべての人が義とされて
命を得ることになったのです」(18節)


このように
神でなければできない救いの業を
自らが十字架の苦難を通ることで成就した神の愛は
今、聖霊として
主イエスを信じる者のうちに宿り
「希望」の元となっています

「主をたたえよ、わたしの岩を
わたしの手に闘うすべを
指に戦するすべを教えてくださる方を」
(詩篇144篇1節)


人生は戦いの連続ですが
いかに戦っていくべきか
その方法を教えてくださるのが神であり

「神はわたしたちの避けどころ
わたしたちの砦(とりで)
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」
(詩篇46篇2節)

「主の成しとげられることを仰ぎ見よう
主はこの地を圧倒される」(9節)


こうして信仰者は
日々の戦い(苦難)を通して
神が本当におられるのだと知ることになるのです
誰の人生も
良いことばかりではありません
それでも
神にあれば必ず助けがある
そのように信仰を交えて考えれば希望があり
神を無視して自分の考えで進むと
その先は破綻するでしょう

なぜなら
神が常に自分と共にあると信じて進む人には
例え不安で心が揺らぐことはあっても
それでもしっかり立つことができるので
その先に必ず勝利(問題の解決)がありますが
人間には限界があることを知らず
自分の力を信じて歩む人は
やがて行き詰ってしまうのです

「人は皆、草のようで
その華やかさはすべて
草の花のようだ
草は枯れ、花は散る
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない
これこそ
あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです」
(ペテロの第一の手紙1章24-25節)

天地の創造主である全能の神の力は
何者にも勝る圧倒的な力です
その神を避け所として歩み
どんな時も、どんな所も
希望をもって進んでいくことができますように



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