今週のみことば
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3月28日
「ところで、神の言葉は
決して効力を失ったわけではありません
イスラエルから出た者が皆
イスラエル人ということにはならず
またアブラハムの子孫だからと言って
皆がその子どもということにはならない
かえって
『イサクから生まれる者が
あなたの子孫と呼ばれる』
すなわち、肉による子どもが
神の子孫なのではなく
約束に従って生まれる子どもが
子孫と見なされるのです
約束の言葉は
『来年の今ごろに、わたしは来る
そして、サラには男の子が生まれる
それだけではなく
リベカが、一人の人
つまりわたしたちの父イサクによって
身ごもった場合にも
同じことが言えます
その子どもたちがまだ生まれもせず
善いことも悪いこともしていないのに
『兄は弟に仕えるであろう』と
リベカに告げられました
それは自由な選びによる神のご計画が
人の行いにはよらず
お召しになる方によって進められるためでした
『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』
と書いてあるとおりです」
では、どういうことになるのか
神に不義があるのか
決してそうではない
神はモーセに
『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ
慈しもうと思う者を慈しむ』
と言っておられます」
(ローマ人への手紙9章6-15節)
年老いたアブラハムとサラ夫妻には
子どもがなく
アブラハムは女奴隷ハガルによって
イシマエルという男の子を授かりますが
イシマエルは
アブラハムにとって長男でありながら
神からは
アブラハムの子孫とは認められませんでした
それは先に
『サラには男の子が生まれる』
という神のご計画があったからで
実際にイサクが生まれます
そして
約束の子であるイサクから生まれる
二人の男の子は
両者ともイサクとリベカの子でありながら
生まれる前からすでに
『兄は弟に仕えるであろう』
と告げられたとおり
兄エサウの長男としての権利を
後に弟ヤコブは奪うことになります
これらの実に理不尽と思える出来事は
人間にとっては不都合な事であっても
すべては
「自由な選びによる神のご計画」です
人間とは神によって造られた存在ですから
自分の意志とは別のところに
神のご計画があることを
受けいれざるを得ません
「人よ、神に口答えするとは
あなたは何者か
造られた物が造った者に
『どうしてわたしをこのように造ったのか』
と言えるでしょうか
焼き物師は同じ粘土から
一つを尊いことに用いる器に
一つを尊くないことに用いる器に造る
権限があるではないか」(21節)
ここでは神を「焼き物師」に
わたしたち人間は「器」に例えられ
すべてのものは
神のご計画に従って
自由に造られていることと
その中で神はわたしたちを
「憐れみの器」として選び
洗礼と聖霊による救いに導き
異邦人であっても神の民として
神に愛される者としてくださったことに
言及しています
「神はわたしたちを憐れみの器として
ユダヤ人からだけでなく
異邦人からも召し出してくださいました」
(24節)
そして、これはすでに
アブラハムに対して告げられていたことでした
「聖書は
神が異邦人を
信仰によって義となさることを見越して
『あなたのゆえに
異邦人は皆祝福される』という福音を
アブラハムに予告しました
それで、信仰によって生きる人々は
信仰の人アブラハムと共に祝福されています」
(ガラテヤ人への手紙3章8-9節)
”信仰によって生きる人々”は
”律法(おきて)によって生きる人々”と異なり
イエスを救い主と信じ
その名による救い(洗礼と聖霊)を受けて
人生を聖霊に導かれて歩む人です
しかし
”律法(おきて)によって生きる人々”は
どうしてもイエスを救い主として
信じることができません
これについてパウロは
「彼らはつまづく石につまずいたのです」
と語りました
「見よ、わたしはシオンに
つまづきの石、さまたげの岩を置く
これを信じる者は、失望することがない」
(ローマ人への手紙9章33節)
ローマ人への手紙9章の冒頭でパウロは
イエスを信じる信仰を受け入れず
あくまでも”律法の義”を追い求める
イスラエルの民である自分の同胞たちに対して
心を痛めています
また
ガラテヤ人への手紙3章においても
せっかく聖霊を受けたガラテヤ人が
まだ”律法の義”にこだわっていることに
パウロは失望しています
「あなたがたに”霊”を授け
また
あなたがたの間で奇跡を行われる方は
あなたがたが律法を行ったから
そうなさるのでしょうか
それとも、あなたがたが
福音を聞いて信じたからですか
それは
『アブラハムは神を信じた
それは彼の義と認められた』
と言われているとおりです」
(ガラテヤ人への手紙3章5節)
聖霊を受けて救われることも
神の奇跡を体験するのも
それはすべて
「自由な選びによる神のご計画」であって
人の努力でなされることではありません
わたしたちがキリスト教を理解する上において
最も重要なのは「信仰」です
これは非常に単純な話なのですが
多くの宗教がそうであるように
キリスト教においても
「〜しなくてはならない」という律法ばかりが先立ち
人の作った規則を守ることに一生懸命になっていると
それは信仰の成長の妨げとなるでしょう
神のご計画は
人間の思いと異なることが多く
最初に述べたように
理不尽だと思えるようなことも
あるかもしれません
それでも
人間はあくまでも
神によって造られた存在です
焼き物師から
自分がどのような器に造られ
どこに置かれたとしても
「憐れみの器」として救われたことに感謝し
信仰を持って生きていく人の人生が
恵まれていくことは間違いありません
神を愛し、神を信じ
多くの人が信じない”つまづく石”につまづかず
その石により頼み
希望をもって歩むことができる人は幸いです
<目次